4月14日 奥の院・修験堂内







 どこまで続いているのか、見ただけでは判然としない洞窟。
 その前に立ちふさがる頑丈な鉄格子の扉は、やはり頑丈ないくつもの錠で封じられていた。

 からくり錠。

 時に人の心を、時にこの鉄条を封じてきたこの倉院流の錠は、またしても成歩堂の行く手を固く阻んでいる。
 そしてこの錠に閉ざされたその向こうには、必ず重要なものが眠っているのだ。

「やっぱりアンタの言った通りのようだぜ」
「ええ、そのようですね」

 この中に『ちなみ』がいるのは明らかだった。成歩堂は腹に力を込め、

「ちなみ!」

 と鋭く叫んだ。

 成歩堂の声が洞窟内に反響し、何重にもなって奥へと消えて行く。反応はない。最後の声が聞こえなくなり、しんと静まり返るまで、成歩堂は待った。
 再び息を吸う。

「ちなみ!」

 静寂を破る怒声が無遠慮にこだまする。が、その声も同じように洞窟の壁にぶつかり、反響して次第に小さくなっていく。

 そして再び、静寂が訪れる。

「……………………………………」

 そのとき、闇の向こうから小さな声が聞こえた。
 初めは洞内を吹き抜ける風かとも思われたが、不吉なその声は間違いなく女の笑い声であった。
 暗闇から聞こえる女の忍び笑いは、とてもこの世のものとも思えない。

 それは間違いなく、『ちなみ』の声だった。

「フフフ…………」

 闇の中にぼんやりと浮かんだ白いものが、少しずつこちらへ近づいてくる。悪夢の中で幽霊に追われるとしたら、こんな心持がするだろう。成歩堂は無意識に拳を握り締めた。

「ちなみ…………」

 白いものは次第にその形を現す。見覚えのある装束をまとった、見覚えのある少女が首をかしげて、微笑んだ。

「こんなところまで、ご苦労様。リュウちゃん。と、それから……」

 ちなみは視線をわずかに動かし、ゴドーの姿を認めて艶然と微笑む。

「リュウ様も。今日はおばかなリュウが2匹そろっておいでですのね」
「ち…………」

 成歩堂の表情が歪む。学生時代に恋人だったのは本当は「あやめ」のほうだったと分かっていても、この顔に「リュウちゃん」と呼ばれることは、成歩堂にとって特別な意味を持つ。
 成歩堂の中にある思い出は、甘いあやめと、苦いちなみでできている。だからといってちなみだけを憎むことができるほど、成歩堂の心情は単純ではなかった。自分にとって彼女とはいったい誰だったのか。自分が「ちいちゃん」と呼んでいたあの子は誰だったのか、成歩堂にはそれが分からないような気がした。


「お嬢ちゃんを返してもらおうか、悪霊さんよォ」

 後ろからゴドーが身を乗り出す。こちらは成歩堂のように浸る感傷はない。重いゴーグルの奥に2ヶ月ぶりの憎悪の火をともして、格子の向こうに立つ亡霊を睨みつけた。
 静かな怒りを燃やすゴドーを見て、ちなみは鼻で嘲笑う。

「やっぱりおばかなリュウね。話にならないわ。せっかく手に入れた肉体を、誰が返すと思うの?」
「……だろうな」

 ちなみは倉院の装束を身に着け、長い髪の一部を結い上げている。……真宵がいつもそうしていたように。
 唇を歪めて、ちなみは居並ぶ龍を見比べる。

「ばかな姉妹に、ばかなリュウども。アタシの復讐は終わらないわ。
 アタシが永遠にチヒロに敵わないですって? ……そんなこと言わせない。アタシは何度だってやってあげる。何度だって復讐してやるわ」

「そのたびにアンタは俺たちに潰される。まだわからねえようだな……クッ」
 顎をしゃくってゴドーがにやりと笑う。

「うるさい!」
 初めてちなみが感情的な声を張り上げた。が、すぐに平静を取り戻す。

「いいわ、じゃあやってみなさいよ。ここにいるアタシに手が届くというのならね!」
 頑丈な格子戸から数歩後ろに下がり、ちなみはこれ見よがしに胸を張る。

「ほら、なんだったらこの子の赤い血を見せてあげようか? どうせそこのデカブツには見えないんだろうけど。フフッ……。
 リュウちゃんになら見えるわよね。かわいいかわいい真宵の、あったかい血が流れるところ……」

「やめろ! 真宵ちゃんに手を出すな!」
 手が届く距離にいるのに、何もできない自分がもどかしい。成歩堂は悲痛な声を上げた。
「ええ、分かってるわ。大事な『アタシのカラダ』だもの」

 そう言って、ちなみは『アタシのカラダ』を誇示するように楽しそうにくるりと回って見せた。

「さすがのアタシもちょっとてこずったわ。でも、こうやって『真宵』が逃げられないように修験洞に閉じ込めておいたから、肉体を完全に支配するまでじっくり時間をかけられた。
 抵抗してアタシを追い出そうとする真宵をねじ伏せて、カラダを奪ってやった。もうアタシはこのカラダを自由に使えるの」

 そのために自ら施錠した洞窟にこもったのだ。途中で真宵の意識が戻っても、これでは逃げることもできなかっただろう。
 霊力の強い吾童山という場所も、霊体であるちなみには有利だった。激しい霊力の攻防の末、悪霊は現世に戻る器を手に入れた。

「そんな…………」
 成歩堂もゴドーも、言うべき言葉が見つからない。目の前に真宵がいるのに、助けることもできないのだ。

「クッ……どこまでもタチの悪ィ……」
 苦々しくつぶやいてみても、ちなみを喜ばせる結果にしかならない。


「さて、そんな無駄話、どうでもいいわ」
 ちなみはククッと咽喉で笑い、目を細めた。怒りと喜びが交じり合った凶悪な視線が双璧の龍を射抜く。

「アタシの目的は、ただひとつ。復讐、よ」
「……どうする気だ」
 搾り出したような声で、成歩堂がうめく。ちなみは悪魔の顔でにやり、と笑った。

「教えて欲しい?……リュウちゃん。あなたは覚えていないのかしら?」
「………………何を」
「最後の裁判、その前夜をね」


 最後の裁判。

 あやめの姿を偽ったちなみが裁かれた、最後の日のことだ。


「あの、前夜…………」

 成歩堂の顔色が変わる。とっさに振り返り、ゴドーの顔を見た。
「ゴドーさん……あの夜……」

 ゴドーはただ黙って、成歩堂の視線を受け止める。
 まっすぐな成歩堂の視線と、赤い光を放つだけのゴーグルが交叉する。

「僕たちは……あの夜……」

「よく覚えていないようね、リュウちゃん。仕方ないわ。あなたはとんでもない風邪を引いて、夢うつつにうなされていたのだもの」
 言葉のない2人の間を、耳障りな女の声が割る。

「私もあの場所をすぐ去ってしまったから、結局あなたたちが何をしたのか、知らないの。
 ねえ、おかしなメガネの元検事さま。あの時何があったのか、ここで立証してくださらない?」

「……………………」
「……ゴドー……さん……?」

 重い沈黙が洞窟を支配する。
 その雰囲気に似つかわしくない楽しげな声が、格子戸の向こうから遠慮なく響く。

「あの裁判の前の夜、私とそこの元検事さまは、リュウちゃんのお見舞いに参りましたの。わたくし、リュウちゃんが心配だったので……。
 そうしたら、リュウちゃんとリュウさまが突然、病室で……とてもわたくしのクチからは言えないようなことをお始めに……」

「異議ありだぜ、性悪女。いつかと同じような手口で俺に薬を盛っただろう。それから、まるほどうにもな」
「さあ、存じませんわ。それはいったいどんなおクスリでしたの? お風邪のおクスリでしょうか?」

 クスクスと笑って、ちなみは上目遣いでゴドーを見る。
「風邪薬なんて可愛げのあるモンじゃなかったってことは、間違いねぇ」

「ゴドーさん、僕らいったい……」
「クッ……」
 不安そうな成歩堂の視線を受け止めて、ゴドーは小さくうめいた。

 そのことなら、成歩堂もうっすらと覚えている。ただ、それが現実のことだったのかどうか、確証がなかった。ゴドーに問いただすこともできず、夢だったと切り捨てることもできずに、今日までずっと悩み続けていた。

「やっぱり、あれは現実の……」

「ね、あの後リュウちゃんの病室で何があったのかしら。この場で見せてくださらない?」

 ちなみはニッコリ微笑み、懐中からすらりと何かを取り出した。


「この娘の命が惜しかったら、ね」


 闇に白刃が閃く。

 抜き身にした細身の小柄を、ぴったりと自らの咽喉元にあてがう。自害する格好で、ちなみは不敵に微笑んだ。

「真宵ちゃ……!」
 思わず駆け寄ろうとした成歩堂の腕をつかんで、ゴドーが首を振る。
「無理だ。お嬢ちゃんの肉体は今、完全に人質に取られてる。手出しはできねえ」
「じゃあどうすれば……」

「だから、言ってるじゃない。見せてみなさいよ。あの夜あんたたちがどうしてたか、今すぐ、ここでね!」
 悲鳴のようなちなみの声が、高らかに響く。勢いで震えた刃の切っ先が、ちなみの白い咽喉の皮膚をぷつりと傷つける。

「あっ」
 ゴドーには見えない。
 成歩堂だけが、ちなみの……真宵の肉体から流れる細い血の色を目の当たりにしていた。
 ほんの薄皮1枚を傷つけただけだったが、流れる赤は成歩堂を動揺させるのに十分だった。

「や、やめてくれ……真宵ちゃん……」
「だったら、そこのデカブツに頼んだらどう? そいつが全部知ってるはずよ」
 ちなみが高圧的に言い放つ。

「ねえ、ゴドーさ……え、あっ」



 振り返った成歩堂の頭を、突然、ゴドーがつかんだ。

 バランスを崩して倒れる体を乱暴に抱きかかえて、唇を重ねる。

「…………っ!?」

 反射的に振りほどこうとした手も、強い力で止められた。

「な、何……」
「どうする、まるほどう?」
「え…………」
「お嬢ちゃんを助けることも、守ることもできねえ。せいぜい奴の言うことを聞くだけが、俺たちに残された道なのかい?」

 言いながら、ゴドーの手が成歩堂のネクタイを一息に引き抜く。目を丸くする成歩堂にかまわず、器用な指先でジャケットのボタンを上から外していく。

「ご、ゴドーさん……ちょっ、と……」
「いろいろ言いてえことはあるが、先に謝っとくぜ、まるほどう」
「謝るって、何を……うわっ」

 くるりと世界が反転し、後ろから抱きかかえられる。広い胸に抑えられて、成歩堂の体はしっかり固定された。

 宙を泳ぐ両手を左手でわしづかみにし、右手は前から成歩堂の下肢をまさぐる。
 『あの夜』のことをぼんやり覚えているだけに、これから何をされるかまったく分からない成歩堂ではなかった。

「ゴドーさんっ! こんなこと……や、やめ……っ」
「性悪女のご命令だぜ。あきらめな」
「でも……やだっ……!」

 ズボンのジッパーを下げ、無遠慮に手を突っ込む。成歩堂が悲鳴を上げた。
「いやだっ! は、はなして……」
「だめだ」
 暴れる成歩堂の首筋に歯を立て、少し力を込めて噛み付く。痛みと羞恥心の間で成歩堂はもう一度悲鳴を上げた。

「あんまり大きい声出すな、まるほどう。響くぜ……」

「そんなことしてたの。厭らしいリュウちゃん」
 蔑んだちなみの声が胸に痛い。

(だって、あの時は体が熱くて……風邪の熱以上に………奥の方から何かが来て……)

 裁判の前夜。

 あの夜、ちなみが2人に盛った毒薬は、命を奪う類のものではなかった。
 が、代わりに人としての大切なもの……「理性」を、失わせた。

「フフフ……笑えるわ。頑張って頂戴、ふたりの、リュウちゃん……」
 うっとりとした口調で、ちなみがささやく。


 ゴドーの大きな手が、成歩堂自身を握る。
「ひっ」
 逃げようとしても、腰をつかまれて身動きできない。頭の中に、半ば封印していた一夜の記憶がくっきりと浮かび上がってくる。

 それだけで、体が少し熱くなる。

「あ、や……っ」

 下肢がずきずきする。決して痛みではないその感覚を、成歩堂は必死で否定しようとした。

「やめて……こんなの嫌だ……」

 けれどゴドーは何も聞こえていないのか、握った物を執拗に擦り上げて止めない。
 張り詰めた成歩堂自身をズボンの外へ導いてやる。

「ほら、アツいぜ……あの夜と同じだな……まるほどう」
「や、め…………」

 熱くしっとりと汗ばむそれを、ゴドーはこれ見よがしに擦りたてる。ちなみが小さく息を呑むのが聞こえた。

 痺れるような感覚が下肢を襲い、膝がかくんと力を失う。

「あっ……」

 成歩堂の体が前のめりに倒れ、固く施錠された修験洞の鉄格子に頭からぶつかる。激しい音を立てて格子戸が鳴り、揺れる鎖が甲高い金属音を奏でた。

 そんな成歩堂を気遣うこともなく、逆に扉に成歩堂の体を押し付けるような格好で、ゴドーは手の動きを早めた。
 がくがくと震える体を支えるのが精一杯の成歩堂は、鉄格子を封じる鎖にしがみついて悲痛な声を上げる。

「も……やだ……放してくださ……ゴドー……」
「さあね、あの怨霊に懇願したらどうだい?」
 ゴドーの視線の先には、格子戸を隔ててすぐ目の前に立っているちなみに向けられる。

 ちなみは一歩前に出て、鼻で笑った。

「お鳴きなさいな、リュウちゃん。1度もアタシの役に立たなかったクズには、お似合いの格好よ……フフフ……フフフフフ……」

 目が爛々と輝いている。怨霊と呼ぶに相応しい形相で、ちなみは喘ぐ成歩堂に見入る。

「まるほどう…………」
 ゴドーが成歩堂の耳を舐め、小さく吐息を漏らす。
「ひあっ」
「…………………………アイツヲ……………サソイダセ………」

 湿っぽい吐息に紛らせた言葉が、成歩堂の耳だけに流れ込む。熱を帯びて潤んだ成歩堂の目に、わずかな光が宿ったのを、ちなみは知らない。

「あ、あっ……いやだ……ゴドーさん……っ」
「調子が出てきたじゃねえか」
「や、やだ……ああっ…………」

 次第に追い詰められ、成歩堂の理性が失われていく。獣になっていく成歩堂を、ちなみは恍惚とした表情で眺める。

「素敵よ、リュウちゃん。その無様な顔をもっとよく見せて」

「嫌だ……み、見ないで…………ちいちゃん…………」

 成歩堂は目に涙を浮かべ、腕をかざして顔を隠す。後ろから男にのしかかられて下肢を弄られ、震える唇でただ哀願することしかできなかった。

「見ないで……見ないでくれ…………こんな……ちいちゃん…………」

「チヒロに関わった男が、2人でこんなコトしてる……最高のショーだわ」

 鬼畜な笑みを顔に張り付かせて、ちなみが囁く。




「よく見せなさいな、そのマヌケ面」







 そして、成歩堂に顔を近づけた。



















 その瞬間。





















「きゃあああああっ!」

 ちなみの悲鳴が修験洞に響き渡った。

 成歩堂の腕が鉄格子の隙間を縫って、ちなみの胸倉を捕まえる。

 と同時に、ゴドーの腕がちなみの頭を強くわしづかみにした。

「放せ!」

 咽喉を潰したようなちなみの怒声が耳を襲う。

 が、成歩堂の拳がみぞおちに深くめり込み、同時にゴドーの手がちなみの頭のまげを解く。


「あ………………」

 鉄格子の向こうで、ちなみの体がゆっくりと倒れる。

 そして乾いた音と共に、地面に崩れ落ちた。











 力を失った成歩堂が、ぺたりと床に座り込む。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
「バカな女、だぜ」
 ちなみの……真宵の髪を結っていた紐を手でいじりながら、ゴドーが吐き捨てる。

「まるほどう、悪くねえ演技だったぜ」
「はぁ……はぁ……ど、どうも」
 自分でもどこからどこまでが演技だったのか、よく分からない。

 とにかく今は、窮地を乗り切ったことだけを喜んでいたいと思う成歩堂だった。

「ゴドーさん、それは……?」
「これかい?」
 紐を指でぶら下げて、ゴドーはクッと笑う。

「霊媒師ってのは、髪を結うことで霊力を高めるそうだぜ。それを断ち切られると、ためていた霊力が拡散して、その瞬間だけでも力を失うらしい」
「そ、そうなんですか。詳しいですね」
「アンタが無知なだけだぜ、まるほどう」

 千尋とともに過ごし、キミ子の計画を独力で阻止しようとした男だ。倉院流霊媒道について詳しくないわけがない。

(真宵ちゃんも千尋さんもそばにいたのに、僕はほんとに何にも知らないな……)

 誰よりも霊媒のお世話になっているくせになぁ、と成歩堂は苦笑した。



「さて、性悪女が起きる前に、なんとかしなくちゃな」
「そうですね」
「その前に……そいつをしまっちゃったほうがいいぜ、まるほどう?」
「え、あ、うわっ!」

 出しっぱなしだった自分自身を慌ててしまう成歩堂に、ゴドーはいつもの顔で呆れてみせる。
「そんなんだからアンタはいつまでたっても、男になれねえんだぜ」











 そして。

 葉桜院に助けを求めた2人は、毘忌尼の手引きでからくり錠の解除にかかった。
 さらに真宵の体から凶悪な怨霊を追い出すために、倉院の里から応援が駆けつけ、その場で除霊の術が施された。

 作業は翌日までかかり、真宵はようやくちなみの手から逃れることができたのだった。


「なるほどくん……それにゴドーさん……また2人に助けてもらっちゃったね」

「いや、僕たちは何もできなかったよ」

「謙遜するこたぁねえんじゃねえか、まるほどう? お嬢ちゃんが無事、戻ってきたんだからそれでよしとしようぜ」

 成歩堂、ゴドー、そして真宵。
 複雑な思いはあれど、それを語るのは後回しにすればいい。


 その日は衰弱した真宵を連れて、そのまま成歩堂の事務所に帰ることにした。
 ……真宵がどうしても成歩堂から離れたくないとワガママを言い、倉院の里の人間の手を振り切って強引についてきたのである。

「本当に……ありがとう……」



 そして成歩堂は久しぶりに、穏やかな気持ちで事務所の扉を開けたのだった。




<続く>





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