イルーゾォのコミケ奮戦記

その3















 炎天下に行列を作って進み、無意味とも思われる遠回りを延々と繰り返し、ただひたすら距離を稼ぐかのように定められた導線を歩き続ける。それはまさに死の行進とも呼べる行程だった。
「あのさ……」
「なんだよ。くだらねーこと言ったらブチ割るからな」
「嗚呼……今ならホワイト・アルバムをくらって凍え死にするのも悪くないなって思っちゃうね。でも死ぬのは嫌だな。死んだらギアッチョに会えなくなる。死ぬのはスゴク良くないことだ。寂しいことだ」
「どうでもいいから本題に入れよ」

「あのね、この行列ってものすごくジェノサイドな臭いがしないか?」
「はぁ?」
「大量の人間が無残に殺される時ってさ、とにかく無意味に歩かされたり行列を作らされたりするんだ。自分が何のためにそれをしているか分からない時。これから何が起こるか分からない人間が大量に列をなしている時。それが大量虐殺の合図だ」
「どうでもいい妄想垂れ流すな、ウゼェ。熱で頭が溶解してるんじゃねえのか?」
「メローネ、水分取ったほうがいいよ」
 ペッシがクーラーボックスから取り出したペットボトルに口をつけて、メローネが絶望的な声を上げた。

「ぬるい! ディ・モールト! ぬるい!」
「ウルセー! こんだけ暑いんだ、そうなるだろう!」
「やっぱりジェノサイドだ! 罠だ! 陰謀だ! 暗殺だ!」
「いい加減オメーは黙れ! 余計暑苦しいぜ!」
「もうだめだ! オレたち全員殺されるんだ! 主にこの暑さによって! 干物製造機に入れられてるんだ! そうはさせるか、オレはドライメロンにはなりたくないっ!」
「だーっ! うるせー! これでも食らえッッ!」
「だっ、だめだよギアッチョ! スタンドはまずいよ!」
 ペッシの制止を振り切って、ギアッチョはメローネの胸倉をつかみ、口をふさいだ。

「もがっ!?」
「黙ってそれ食ってろ」

 ギアッチョが手を放すと、メローネの口の中にはプラスチックケースが収まっていた。
「いあっひょ、おれあい?」
「フリスク。それ食べながら飲み物を飲むと、スゲー冷たく感じる」
「ばびで!」
 よだれを垂らしながら興奮するメローネは、べとべとのフリスクを口から取り出すとその中身(こちらはまだ湿っていなかった)を口に放り込んだ。
「ほんとだ! 冷たい! ひやっとするぞ!」
「ほんとかい、メローネ?」
「ほんとほんと! ペッシもやってみれ! すごいぞギアッチョ、これはノーベル平和賞ものだ!」
「ウルセーなぁ。こんくれー常識だろうが」

 自分もフリスク(こっちはメローネのよだれがついていないもの)を口に放り込み、ペットボトルに口を付けて、ギアッチョは眩しそうに空を仰いだ。
「クソあちーなぁ……マジでいつまで歩かされるんだよ……」

 人の波は川となり、渦を巻き、どこまででも流れて行く。
 だが、その流れはやがて広い土地の全面を埋め尽くし、静かに止まる。

「こ、ここが終点……?」
 ついに人の流れが停止したのを見て、メローネはため息を吐いた。そこはあの建物からはずいぶんと離れた場所で、そこにとどまる意味がとうてい分からない。
「ここで止まりまーす。動くときにはまた声がかかりますので、それまでその場所で待機していてくださーい」
 スタッフの声とともに、周りの人が次々と地面に腰をおろしていく。それを見てメローネが肩を落とした。

「はあぁ……ディ・モールト暑くて、日陰もなくて、おまけにこんな地べたに座らされるのか。オレたちまるで奴隷狩りされて出荷される前みたいだ」
「ウルセー黙れ。マスクド変態。おとなしく座って待ってろ」
「ああもう、ギアッチョは辛抱強いんだねぇ。オレはもううんざりだよ」
 いつもならチームで一番切れやすいはずのギアッチョが、今日に限って驚くべき辛抱強さを発揮している。一緒に暴れてくれないギアッチョを横目に見ながら、メローネも仕方なく黙って地面に腰を下ろした。

「これ、敷けよ」
 さっきコンビニで買った新聞を広げ、その中から適当なページを抜いてメローネに渡す。
「あ、もしかしてそのために新聞を買ったの?」
「まぁな。何にでも使えるしよ」
 そう言いながらギアッチョは新聞を解体し、敷物代わりにして地面に腰を下ろした。頭にもかぶって直射日光を避け、余った新聞を読み始める。見た目は悪いが、そんな悠長なことを言っていられるような場合ではない。今はまさに生きるか死ぬかのサバイバルなのだ。

「ワオ! シートに、帽子に、暇つぶし! 新聞ってスゴク使い勝手がいいね! ギアッチョ、君はベリッシモ頭がいいぞ!」
「本当だね、今日のギアッチョはすごく冴えてると思うよ」
 はしゃぐメローネとペッシに褒められて、ギアッチョは気まずそうな表情で新聞紙に目を落とした。
「チッ、褒めても何もでねーよ」
「照れ屋さんだ! ギアッチョかわいい!」

 メローネは嬉しそうにギアッチョの隣にくっついて座った。同じ新聞紙の下に顔を突っ込んで日陰を半分奪い、ギアッチョが読んでいる新聞の紙面に見入る。
 ぐったりしたり、ハイテンションになったり、ころころと表情の変わるメローネを見て、ギアッチョは呆れた声を上げた。
「オメーはほんと、テキトーな奴だな。生きるの楽だろ?」
「楽かどうかは分からないね。でも楽しいよ」
「ま、同じだな。幸せなこった」
「ギアッチョは楽しくない?」
「少なくとも、今は全然楽しくねーな。それだけは言える」
「またまた。けっこう楽しんでるクセに」
「これが楽しんでる顔かよ?」
「うん、楽しんでる顔してるよ。違う?」
「……ま、ちょっとはな」
 そう言って、ギアッチョはニヤッと小さく笑って見せた。メローネもニヤニヤと笑う。

「だよねー。そうこなくっちゃな、ギアッチョ」
「けどよォー、こんなに大変なのに、イルーゾォのヤローは何だって毎回毎回、こみけって奴に来たがるんだ?」
「あれだよ。イルーゾォはなんか先に入れるチケット買ってあるんだって」
 メローネの思わぬ発言に、ギアッチョが気色ばむ。
「何だよ! そんなもんがあんだったらオメーも買えばよかったじゃねえか!」
「チガウよ。何でも、事前に申し込みをして、しかも抽選なんだってさ。あとマンガを描く人だけが申し込めるらしい。ね、ペッシ?」
「そうそう。多分それがさっき言ってた「サークル」って奴じゃないのかな?」
「一般人は炎天下で待たされて、マンガ描くオタクが優先か。なるほど、オタクのためのイベントだからな」
 憎らしいほどに晴れた空を見上げて、ギアッチョがシニカルにつぶやく。

「だからってもうここまで来たら後へは退けねーからな。ゼッテーにイルーゾォのヤローを見つけて、ぶん殴ってやる!」
「そうだ! オレたちをこんな目に遭わせたイルーゾォをぶん殴らなきゃ!」
「いや、イルーゾォは別に悪くないんじゃないのかなぁ……」
 ペッシが弱々しい声で弁護してみるが、ギアッチョとメローネはもう「イルーゾォをぶん殴る」という目標しか見えていない。それだけを楽しみに気力を振り絞っている2人に、一番格下のペッシが何か言えるはずもなかった。

(ごめん、イルーゾォ。オレには何もできないや……)
 せっかく楽しい(?)「まんがのお祭り」なのに、ギアッチョとメローネにタコ殴りにされるであろうイルーゾォの姿を想像して、ペッシは己の無力を嘆くことしかできないのであった。


* * * * * * * * * *


 そして待たされること2時間。
 ついに、列が動いた。
「動いた! 動いたよギアッチョ!」
 地響きをたてんばかりの勢いで動き出した大量の人間を見て、メローネが興奮を抑えきれないといった表情で飛びあがった。
「ついにイルーゾォのヤローをぶちのめす時が来たか」
 陽炎のようにゆらりと立ち上がったギアッチョの体からは、やる気満々のオーラがメラメラと噴き出している。オーラというより、正確には体温と蒸発した汗と熱気なのだが。

 誰かの先導に従い、列はぞろぞろと流れて行く。もはやこの行列を仕切っているのは誰か、それすら分からない。大いなる意志に従い、人々は「館内に入場する」というたったひとつの目的に集約され、暴動すら起きることなく、粛々と、整然と、列は進んでいく。
「すごいねぇ。この光景は圧巻だ。感動すら覚えるよ」
 額の汗をぬぐいながら、メローネが感無量といった表情で空を仰ぐ。その視界にあるのは、もう何時間も眺め続けていた逆三角形の奇妙な建物だ。その建造物の中にとうとう入る時が来たのだ。

「ギアッチョ! 列が中に入るよ!」
 人々が建物の中に吸い込まれていくのを指差して、メローネが叫んだ。
「これで暑い炎天下ともオサラバだぜ。中に入りゃあこっちのもんだ。イルーゾォのヤローを見つけて……」
 そう言いながらギアッチョは建物の中に踏み込んだ。

 人、人、人。
 高い天井、おしゃべりの声、響くアナウンス、人の流れ、人の行列、じっとりと染みるような熱気。
 中は人でぎっしり埋めつくされていた。

「………………」
「………………」
「………………」

 3人は中に入ったところでぼんやりと立ちつくす。

「そこで立ち止まらないでくださーい」

 スタッフに注意され、のろのろと前に進んで、けれどどこへ行くあてもなく傍らの壁に寄る。

「………………」
「………………」
「………………」

 壁に背中を預け、しばらく目の前の人の流れを眺めている。
 やがて、ペッシが口を開いた。

「あのさ」
「………………」
「オレたち、どこへ行けばいいんだろうね?」
「………………」
 誰も答える者はない。

(うかつだったぜ……)
 茫然としながら、ギアッチョが内心歯噛みをする。冷静に考えたら、これだけの人が集まるイベントだ。イルーゾォがどこにいるか、どうやって探せばいい? その方法まで考えていなかった。暑い中で並ばされて、ただこの建物の中に入ることだけしか考えていなかったのはうかつだった。
 一応、この「任務」の「現場リーダー」を自負しているギアッチョとしては、何とか自分の力でメローネとペッシを引っ張っていかなければならない。

「ねえ、イルーゾォどこにいるのかな?」
「……探す、か?」
「けど、この中から探すのって無理がないかなぁ?」
「………………」
「………………」

(考えろ、考えるんだ……! この程度のトラブル、「暗殺」じゃあよくあることだ。むしろ「暗殺」よりずっとラクなはずだ。……落ち着け、状況をよく観察して、判断するんだ……)
 熱に浮かされたようにぼーっとする頭を振って、ギアッチョは油断なく辺りを観察した。そのうち、あることに気がつく。

「見取り図? ……パンフレットがあるのか?」

 道行く人々の多くが「地図」のような物を持っていて、それを見ながら歩いていく。それに同じ表紙の分厚い冊子を持っている人も多い。

「メローネ! ペッシ! このイベントにはパンフレットがあるみたいだぜ」
「なるほど! それをもらってくればいいのかな!?」
「見取り図だか地図だかみてーなのも付いてるようだ。そいつをまずは手に入れる!」
 ギアッチョのメガネがきらりと光った。離れたところの壁際に、同じ表紙の冊子を大量に配っている場所が見える。
「あいつだ! あいつをゲットすりゃあきっと中に手掛かりはある!」
「ラジャー! オレ、もらってくる!」

 ペッシが元気よく飛び出していく。
 この冊子の配布にも人だかりができていて、少し時間はかかったがしばらくしてペッシが戻ってきた。顔がやや青ざめている。

「お、お金を取られたよ……」
「ウソだろう!? パンフレットって無料でもらえるんじゃないのか!?」
 メローネが驚いて叫ぶが、ギアッチョはこれを冷静に制した。
「いや、この分厚さだ。それに入場料を取られなかったからには、こういうところで稼ぐってことも十分に考えられる」

「ちょ……今日のギアッチョまじカッコイイ。惚れる。愛さざるを得ない。今すぐオレを好きにしてほしい。メチャクチャにしてほしい。ベネすぎる。ベネベネで最強に見える」
 疲労と熱気で朦朧としたメローネが、焦点の合わない目でぶつぶつとつぶやく。ため息をひとつ吐いて、ギアッチョはニヤッと唇の端を上げた。
「カッコイイのは今日に限ったことじゃねえだろ?」
「ぎゃああああっ! ギアッチョかっこいいよギアッチョ! ギアッチョのカッコよさに全米が泣いた! 全俺が死んだ! ギアッチョはオレを萌え殺す気だ!!」
「オメーは力尽きたと見せかけて、いつもまだ元気余ってるよな。どっから出てくるんだその無駄なエネルギーはよー」

 ギアッチョとメローネがそんな会話を交わしていると、電話帳のような重くて分厚いパンフレットを開いたペッシが悲鳴を上げた。
「な、な、なんだこりゃあーッ!?」
「どうしたペッシ?」
「こ、これ、全然見方が分からないよぅ!」
 ほとんど泣きそうな顔で悲鳴を上げるペッシの手元を覗き込んで、ギアッチョとメローネは顔色を変える。

「……何だ、こりゃあ」
「これ、これ全部、違う奴なのか!?」
「た、多分そうだろうね……」

 ページをめくってもめくっても、そこには「顔」のイラストがびっしりと並んでいた。素人目に見てもそれらがひとつずつ、違った人間の描いたものだということがわかる。小さな、記念切手ほどのスペースの中にイラストや文字がぎっしりと詰められ、その詰まったコマが紙面にぎっしりと並んでいる。紙は聖書に等しいほど薄く、厚みもまた聖書ほどあって、しかも大きさは聖書の数倍だ。
 否、こんなものが聖書であるはずがない。これは悪魔の書だ。

「こここここの中から、イルたんのイラストを探すのか!? そんなことできるわけないじゃないかああああっ!!」
「テンション上がったり下がったり、ちったあ落ち着けメローネ! オレたちは今、いいところまでは来てんだ! あと少しだ! オレを信じて、落ち着けッ!」
「ううう……分かったよぉ……」
 叱咤されて、メローネはしゅんと小さくなる。

 ギアッチョはパラパラとページをめくり、目次を見て、小さく口笛を吹いた。
「ホラな、冷静になってきちんと観察すりゃあ、糸口は見えてくる」
「あ、何か見つけたの?」
「ここを見ろ。これは3日分の内容を1冊にまとめているらしいぜ」
 ギアッチョが指したところには「1日目(金)、2日目(土)、3日目(日)」と区分けが書かれている。
「これでとりあえず、3分の1に絞られたってわけだ」
「すごーいギアッチョ!」
「ほんとに! 今日のギアッチョはすごく冴えてるよッ!」
 メローネとペッシに褒められて、ギアッチョも悪い気はしない。だが安心するのはまだ早い。3分の1になったといっても、そこには見知らぬイラストがまだまだ石畳のように並んでいる。

「オイ、イルーゾォはどんなマンガを描くか分かるか?」
「ううん……たまに覗いてもすぐ隠されちゃうしなぁ。見ればなんとなくは分かるけど……この中から探すのは、多分無理だ」
「そうか……」
 やや落胆しながらも、ギアッチョは今日の分のページをゆっくりめくる。そうしているうちに、ある重要なことに気がついた。

「……これってよォー、何か同じイラストばっかり並んでねーかぁ?」
 タッチは違うものの、おそらく同じ人物であろうと思われるイラストがまとめて並んでいる。それを見てメローネが叫んだ。
「あ、これ、あれだろ! 『俺の嫁』って奴だ!」
「はァ? 何だそりゃあ?」
「イルたんがいっつも言ってるんだよ。ナントカは俺の嫁って。アニメ見ながら」
「嫁ってよォー……。アイツが見てるのは男ばっかり出るアニメじゃねーかぁ? そのどいつを取って「嫁」とか抜かしやがってるんだッ!? そもそも二次元相手に嫁もクソもあるかよ! ふざけんな! オレは全然納得いかねーぞぉ! クソックソッ!」
 うっかりギアッチョの「納得いかねぇ地雷」を踏んでしまったらしい。地団太を踏むギアッチョの気をそらそうと、ペッシが声を上げた。

「ギアッチョ! いっつもイルーゾォとチャンネル争いしてるよね!」
「あァ? 争ってねーよ。オレがテレビ見てんのにアイツが勝手にチャンネル変えようとすっからだろ」
「そのアニメ、あとでイルーゾォが録画して見てるのを一緒に見たことがあるんだ。ちゃんと覚えてないんだけど、多分この人たちが出てたと思う!」
 ペッシがパンフレットを開いて指したところには、これまた同じキャラクターのイラストが並んでいた。だが、確かにそう言われてみれば、なんとなく見覚えのある顔だ。何ページにも連なって、同じユニフォームを着た違うキャラクターが並んでいる。

「『この辺り』へ行けば、イルーゾォの野郎もうろうろしてやがるか……?」
「イイぞ! これはベリッシモ良い展開だ。この近くにイルーゾォはいるだろう!」
「スゲーやっ! ついにイルーゾォを探すあてが見つかったんだねッ!」

 ついにイルーゾォの手がかりをつかんだ3人。
「おっしゃあ、行くぜオメーら!」
「おう!」
「もう一息だねッ!」

 分厚いカタログを手に、3人は意気揚々と東館へ向かって行く。

 だが、コミケの本当の恐ろしさはこれからだということを、このとき彼らは知る由もないのであった……。



* * * * * * * * * *



「ありがとうございましたー!」
 最後の1冊をお客に手渡し、後ろ姿を見送って、イルーゾォは体を震わせながらガッツポーズを取った。
「……っしゃ! っしゃあー!!」
「おー、スゲーな。全部売れたのか?」
 隣でパイプイスに座って見ていたホルマジオが笑顔になる。立って売り子をしていたイルーゾォは、周囲に配慮しながら無言で何度もこぶしを握りしめ、こみ上げる喜びを噛みしめる。

「全部売れた!」
「おー、おめっとさん」
「全部買えた!」
「まぁなー。オレが「コレゼンブクダサイ」で買い占めてきたからなぁー」
「今日は人生最良の日だ!!!」
「そうかー。そこまで嬉しいもんか。よかったなー」
 ホルマジオにはいまいちピンとこないが、尋常でない喜び方をしているイルーゾォを見ていると、それがどれだけ嬉しいことなのかなんとなく想像がついた。

「頑張って描いたもんなァ?」
「うん! うんっ! これで徹夜も報われたよー! 泣きながら原稿描いた甲斐があったよぉー」
 心の底から晴れ晴れと笑って、イルーゾォはここ数日間の苦労に思いを馳せた。仕事との兼ね合いで時間を捻出し、寝食を忘れて原稿に打ち込んできた。いくら好きな作品の二次創作とはいえ、途中でつらくて投げ出したくなる瞬間が何度もある。それを乗り越え、歯を食いしばって頑張り、自分を叱りつけながらようやく出せた新刊だ。

「ああっ! オレ、頑張って本当に良かったなあぁ!」
「そうだなぁ。苦労が報われる、って良い事だよな」
「本当にね! さてと、どうしようかな……」
 今勢いのあるジャンルということもあり、イルーゾォの持ち込んだ新刊既刊はすべて完売した。いつもならこのまま店をたたんでもう一度買い逃しがないかどうかサークルを巡回したり、あるいは他のジャンルへ買い物に行くのが常だ。
 ただ、今日は一般ピープルのホルマジオが一緒にいる。それに昨日の徹夜の疲れもかなりたまっていた。

「今日はこのまま帰っちゃおうか? どっか途中でおいしいもの食べようよ」
「おお、けど買い物はもういいのか?」
「うん、今日はもういいや。いっぱい買えたしね」
 そう言いながらイルーゾォはスケッチブックに何か走り書きを始めた。「完売しました。ゴメンナサイ!」と書き、簡易ながらも愛嬌のあるイラストを添える。それを机の上に出して、ディスプレイの器材や買ってきた本の整理を始めた。

「これはどうすんだ? 宅急便で出すのか?」
 ホルマジオは自分が買い集めてきたかなりの量の同人誌を指して聞いた。
「ううん、自力で持って帰る」
「マジかよ。かなりあるぜ?」
「うん、だって今日読みたいしさ」
「今日、これ全部読むつもりか?」
「そうだよ。戦利品を我慢するなんて無理無理の無理だからね」
「そりゃあしょうがねぇなあぁ」
「しょうがないんだよー」

 当たり前のようにそう言われて、ホルマジオは不可解ながらも納得せざるをえない。
 この、素人が趣味で作った薄っぺらいマンガの小冊子に、これほど人を引き付ける魅力があるというのがとても不思議だ。けれどそのパワーは、生き生きとしている今日のイルーゾォを見ていると素直に実感できる。
(世の中には不可思議なモンがいっぱいあるんだなァ……。いい経験したぜ)
 同人誌、とやらが秘めるすさまじいパワーを目の当たりにして、ホルマジオはまた少しイルーゾォのことが理解できたような気がした。

「さあて、帰りますか。お先に失礼しまーす」
 隣のスペースの人に挨拶をして、イルーゾォは席を立った。
「オイ、大丈夫か? 荷物持ってやるぜ」
「あ、ありがとー。でも重いよ?」
 イルーゾォのカートには本がぎっしり詰まっていて、入りきらなかった分はリュックサックと片手カバンに分けて持って帰るらしい。
「そのカート引くだけでも大変だろ。人も多いし、カート以外は持ってやるわ」
「わー、ありがとう。ていうかごめんなさい本当に……」
「しょうがねえからなあ。オメーはよー」
 荷物を引き受けてホルマジオはニッと笑ってみせる。

(あーもう、ホルマジオまじ天使。まじ王子。まじマジオ)
 ハイになっているせいで、脳内には訳のわからない言葉がぐるぐると回る。
「ごめんねホルマジオ。せめておいしいものだけでもご馳走するからさ」
「おう。そいつはいいな。何食おうか」
「ビッグサイトの下にね、いい居酒屋があるんだ。『坊』って言うんだけどさ、そこのスタミナ丼がおいしくて、他にもつまみとかけっこうあるし、雰囲気も悪くなくて。良かったらそこ行かないか?」
「へー、いいじゃん。そこ行こうか……ん?」
 重いリュックを背負いながら、ホルマジオが眉根を寄せた。

「オイ、あそこにいるの、ギアッチョたちじゃねーか?」
「えええっ!?」
 ホルマジオが指さしたのは、東館と西館をつなぐ通路から見下ろした中庭のような場所だ。色とりどりの衣装を身にまとった人間が集まっている。
「あそこ……。ほら、変な格好した奴と変な格好した奴の向こうにいる、変な格好した奴だよ」
「あのねホルマジオ、あれはコスプレっていうんだよ」
「おお、あれがコスプレか」
 コスプレ広場は大勢の人で賑わっていた。真夏の炎天下にも関わらず、カツラをかぶったり、長袖をきっちり着こんだりしている者もいる。おまけに誰もが楽しそうに笑い、あるいは涼しい顔でそこらにたむろしている。その様子は気温を感じさせない。
(やっぱスゲーな、オタクってのはよォー。ハンパねぇなぁ。新手のスタンド使いの集まりか?)
 ホルマジオがそう思ってもおかしくないくらい、この「コミケ」というイベントにはエネルギーとパワーがある。

「あ、ほんとだ! ギアッチョじゃん! メローネとペッシもいる! 何で!?」
 コスプレ広場の真ん中に思いがけない姿を見つけて、イルーゾォが悲鳴を上げる。
「おーおー、お揃いでよォー」
「ああああ! ありえない! 許可しない! なんであいつらがこんなところに来てるんだよッ!?」
「さーなぁ。本人に聞けば分かるんじゃねぇ?」
「行くよ、マジオ!」
 イルーゾォは重いカートを引っ張りながら、すごい勢いでコスプレ広場に向かって突進していった。






【続く】







ていうかまだ会えないイル組とギア組とか……どんだけ……。次回最終回!  →続きを読む
By明日狩り  2010/11/21