イルーゾォのコミケ奮戦記

















「うう……オワラナイ……終わらないよぅ……助けて兄k…えーりん!」
 パソコンに向かって、イルーゾォがぶつぶつと独り言をつぶやいている。長い黒髪を後ろでひとつに束ね、前髪はヘアバンドで留めて、傍らには栄養ドリンクの空き瓶が数本転がっていた。見る者が見れば一目で「修羅場」だということが分かる現場である。
 修羅場、といっても、戦争や痴話喧嘩のことではない。イルーゾォにとって修羅場といえば、それは「マンガ原稿の締め切り間際」のことだ。

 コンコン、とノックの音がしたかと思うと、返事を待たずにホルマジオが入ってきた。
「あいよ、お疲れさん。コーヒー濃いめで」
「あ、ありがと……」
 見るからにへろへろの状態で、イルーゾォは冷たいアイスコーヒーを受け取った。その顔はほとんど死人同然だ。
(いつものことながら、よくやるねェ)
 ホルマジオは呆れ半分、感心半分でパソコン画面を覗き込んだ。すかさずイルーゾォがその視界を遮る。
「見るなよ!」
「いーじゃん、見たってよー」
「見るな! 死ぬぞ!」
「人に見せるために描いてんだろー? いいじゃん見たってよォー」
「人に見せるんじゃないもん! オタクに見せるんだもん!」
「オタクだって人だろ?」
「オタクは人じゃねえ!」
 勢いでそう言い切って、イルーゾォはホルマジオをぐいぐいと脇へ退ける。「はいよはいよ」と言いながら、ホルマジオは苦笑した。

 毎年、盆と暮れの頃、イルーゾォはこんな状態になる。最初はホルマジオも何が何だか訳がわからなかったが、それがどうやら「趣味のマンガの発表会」の締め切りらしいということを理解してからは、こうして陰ながら応援している。

「ンで、今回は何のまんが描いてるんだ?」
「イナイレ」
 つっけんどんに答えるイルーゾォの口調は、「めんどくさい」と「恥ずかしい」の両方を含んでいる。
「ああ、毎週熱心に見てるアニメか」
 確か、イルーゾォが見ているアニメがそんなタイトルだったような気がする。見ているといっても、その時間はたいていギアッチョとチャンネル争いをして、負けてはケータイから「今日もイナイレ見れなかったなう」などとツイートするハメになるのだが。
「イナイレはアニメじゃなくて、ゲーム」
「あれ、そうなのか?」
「元々DSのゲーム発祥で、人気があるからアニメにもなってんの」
「ふーん」
 聞いてもいないことを詳しく説明してくれるイルーゾォに、ホルマジオはなるべく「あんまり興味がない」ことを悟られないような当たり障りのない口調で返事をする。
 そのイナイレとやらには興味がないが、ホルマジオはイルーゾォが熱心に取り組んでいる「同人活動」のほうにはけっこう興味があった。

「何か手伝うことあるか?」
「うーん、アナログのときはけっこうあったんだけど、デジタルになってからは人に手伝ってもらうとかできなくなっちまったからなー……」
 パソコン作業に戻ったイルーゾォは、せわしなく手を動かしながらほとんど独り言のように答える。
「そっかー。肩とか凝ってねぇ?」
 何気なく肩に手を乗せて力を入れると、イルーゾォが素っ頓狂な声を上げた。
「ふおおっ!?」
「お、すげー凝ってんじゃん」
「い…痛ぇ…あ、でも気持ちい……ふおおおお……」
 パソコン作業でガチガチに固まった肩を力いっぱい揉まれながら、イルーゾォが謎のおたけびを上げてぶるぶると震える。面白いくらい凝った肩を揉むのも、イルーゾォが出す変な声も面白くて、ホルマジオは調子に乗ってごりごりと肩を揉みしだいた。
「すげーなぁ。人間の肩ってこんなになるのかー」
「いででで……でも気持ちいい……ふぐおぉぉぉぉ……」
 肩を揉みながら、パソコンの画面を覗き見る。マンガの製作途中なんてめったに見られるものではないので、まだ輪郭だけがざっくりと描かれた走り書きのような画面はなかなか面白かった。

「これっていつ出す奴?」
「あ…あさって……うああああいてぇぇぇぇ……」
「明後日って、印刷所とか間にあわねーじゃん」
 確か「同人誌」の印刷には「中3日」とか「中7日」とかの作業日程があるはずだ、具体的なことはよく分からないが、そういう無駄な知識だけはけっこう増えている。
「や、オフはもう入稿済みなんだけど、こないだのアニメのネタでもう1冊作りたくて、だからコピーで……ああ!」
 イルーゾォはいきなりイスの上で飛び上がった。

「ホルマジオ! ごめん! 頼んでいい!?」
「はいよ。何すりゃいいんだ?」
「コピー用紙買ってきといて! B4サイズの! 2束くらい!」
「ああ、アジトのコピー機で作るのな。前みてーに」
 いつもは印刷所に頼むのだが、間に合わなくなったり突発本が出たりすると、コピーで前日に製本することになる。アジトの事務室にあるコピー機はリゾットが仕事に使う以上にイルーゾォが有効活用していて、イルーゾォいわく「家にコピー機があると思うと、甘えてオフが間に合わなくなる」ということだ。そのときは刷ったり折ったりする作業にホルマジオもしばしば駆り出される。
「またあれか、製本とかもあるんだろ?」
「うぅ……ごめん。そうなる」
「しょーがねーなぁあ。手伝ってやるぜ」
「ううぅ……ほんとごめん……」

 小さくなって謝るイルーゾォの肩を揉みながら、ホルマジオはニコニコと笑った。

「その代わり、オレもコミケってやつに連れてってくれよ」

「はあぁ? マジかよ!?」

 思いもよらないホルマジオの頼みごとに、イルーゾォはあきれ果てた顔でため息を吐いた。
「だってよォー、テレビとかでもやってんじゃん。なんかすごいんだろ? 人が大勢集まってよー」
「そうだけど、死ぬよ?」
 真顔で言うイルーゾォが面白くて、ホルマジオはますます「コミケ」に興味がわく。
「死なねーよwww ていうかさ、オメーがこんなに一生懸命やってることとか、見てみたいじゃん。どんなとこなのかさー」
「うー……パンピーが来ても面白くないよ実際……」
「見てみるだけでいーんだよ。何だったら手伝うし。売るのとか」
「うっ……それはすっげー助かるけどさ……」

 つい最近新しいジャンルに転んだばかりのイルーゾォは、まだ売り子を頼める友達もいない。ついでに、転んだばかりだから買い物もたくさんしたいという本音がある。
(けどなぁ……コミケにパンピーの知り合い連れてくってのもどうよ……)
 コミケもそうだし、自分の本を見られるのも恥ずかしい。けれど売り子は欲しい。それに自分の趣味に理解を示してくれる身内に、成果を見せたいという自己顕示欲も少しばかりないではない。

「じゃあ……お願いしちゃおうかな…」
「おうよ、あさってな。朝早いんだろ? 凍らせたペットボトルとかも持ってくんだろ? サンドイッチとかポスターとか入れて、カート引っ張ってくんだろ?」
「そ、ソウデス……ううぅ…」
 自分の生態をすっかり把握されているイルーゾォは、タブレットのペンを握りしめたまま小さくなった。


* * * * * * * *


 そしてコミケ当日。

「はー、雨降んなくてよかったー」
 駅に降り立ったイルーゾォは空を仰いで嬉しそうに言った。湿度も気温も高く、早くも暑い一日を予感させる朝の空気だが、幸い雨は降りそうにない。
「そうだなぁ。雨が降ったらこれ使えないもんな」
 イルーゾォが引っ張るカートを見て、ホルマジオもうなずく。
(カートについては「持ってやろうか?」と言ったのだが、「素人が人ごみで引くもんじゃねぇ」と断られた。代わりに画材屋のネームが入った紙袋を持たされた。いろいろと販売用のグッズが入っているらしい)

 駅は人であふれ、そうかと思うとすでに何百人という人が並んで座っているのが目に入る。
「うわ、もう並んでるぜ。すげー人数だな」
「始発組の一般参加者だよ。これからどんどん増える」
「まだ来んのかよ」
「こんなもんじゃないんだから」
 ものすごい人数に圧倒されるホルマジオは、人ごみではぐれないように必死でイルーゾォの後をついていく。

(人数もスゲーが、手際の良さもパネェなぁ)
 くっきりと列をなして座る行列。
 けっこうなスピードで歩いていく参加者は、目的地ごとに分かれて矢印の方向へ流れていく。波に乗っていくと見る見るうちに館内に吸い込まれた。
「これ、チケット。あそこで渡して」
「はいよ。……へぇー、これがビッグサイトってやつかぁ」
 初めて入るビッグサイトに驚く暇もなく、さっさと歩くイルーゾォを見失わないように気をつけて歩く。
 広い通路を通り抜け、だだっ広い館内に入ると、そこは数え切れないほどの長机が整然と並べられた空間だった。
 歩く人、とどまる人、机をセッティングしている人……。誰もが自分の居場所となすべきことを分かっている。それがやけに不思議で、新鮮だった。当然、イルーゾォもまっすぐ一点を目指して歩いて行き、ほとんどどれもこれも同じように見える机のある一か所まで来て止まった。
「ここだよ」
「スッゲーな。よく分かるな」
「そりゃ分かるよ。自分のスペースだもん。てか迷子にならないでね。似たような場所が多いから」
「だよなぁ」
 これはうかつに「自分のスペース」とやらを離れたら二度と戻ってこれないかもしれない。

「おはようございまーす。今日お隣です。よろしくお願いします」
「あ、よろしくお願いしまーす」
 丁寧に隣にあいさつをして、イルーゾォは机の上に積まれたチラシを片づけにかかる。
「ごめん、机の下の段ボール箱開けてくれる?」
「おう」
「そしたら適当に机の上に出して。オレが並べるから」
「おう」
「値札と……ポスターと……釣り銭と……」
 イルーゾォの手際はここでも早い。てきぱきと並べて、あっという間に机の上をきれいに整理整頓してしまった。

 ホルマジオは感心して声を上げる。
「すげー。早えー。きっちりしてんなー」
「あ、あんまり言うなよ。素人みたいで恥ずかしいじゃんっ」
 イルーゾォはうつむいてそう言ったが、まんざらでもないらしい。声が少しだけ誇らしげなのを、ホルマジオはちゃんと聞いていた。

「で、オレは何したらいいんだ?」
「えーと、開場したら簡単なお仕事頼んでいい?」
 カバンを漁りながらイルーゾォが取り出したのは、どうやらここの配置図らしい。細かく区切られた図の中に、カラーペンで何かいろいろと書き込みがされている紙片を渡して、イルーゾォは真顔になる。
「あなたにクエストを依頼します。まずこれが宝の地図です」
「ほうほう」
「この、色がついたところに行って下さい。机半分につき1回ずつ、まずはひとつめの呪文を唱えてください」
 何十という配置がまとめて塗りつぶされている個所を指さして、イルーゾォは真剣な表情で言った。
「呪文?」
「ひとつめの呪文は、『これ全部ください』です」
「全部? いいのか? けっこうあるぜ?」
「持ち弾はたくさん授けるので、心配しないでください」
 そう言ってイルーゾォは財布を取り出した。いつも使っているものとは違う、「何かあってうっかり失くしても悔しくないレベル」の安っぽい財布だ。中には大量の千円札と小銭が入っている。カードの類や万札が一切入っていないところを見ると、今日のために用意した文字通りの「軍資金」らしい。
「机半分が、1スペースです。半分ずつずれて同じ呪文を唱えてください」
「はいよ。全部のスペースで「これ全部ください」な?」
「物分かりが良くていらっしゃる。そしてもし何か言われたら、ふたつめの呪文を唱えてください」
「また呪文か。何だ?」
「何か聞かれたら、『頼まれ物で良く分からないんで、とりあえず全部下さい』です」
「ああそう……とにかく全部買ってくりゃいいんだな」
「その通りです」

 イルーゾォはホルマジオには売り子ではなく、買い出しに行かせることにしたらしい。右も左もわからない一般人にいきなり売り子をさせるよりは、買い物のほうが問題がないだろうという判断だ。それにせっかくの新刊はぜひとも自分の手で売りたい。
(逆カプにも負けない。逆カプでも負けるもんか。負けない。よし、オレは負けない……)
 心の中で回復呪文を唱えて、イルーゾォは拳を握った。他人に買い物を頼むとき、一番の落とし穴はそこだ。うっかり混ざってくる逆カプにも負けない強い心さえあれば、自分で買い物に行かなくても同人誌は楽しめる。

 そんなことをやっているうちに、館内に放送が入った。
「コミック○ーケット、開場します」
 そして拍手。イルーゾォもやけにハイテンションで拍手をしているので、ホルマジオもつられて拍手をする。
「すいません、これとこれ1冊ずつ下さい」
「ありがとうございます。800円になります」
 イルーゾォは早速現れたお客の対応を始めた。会場の空気が一瞬にして慌ただしくなるのが面白い。
「……えっと、じゃあオレ行ってくるわ」
 スペースを離れようとするホルマジオに、イルーゾォが声をかける。
「スペースナンバー覚えておいて! 最悪サークル名だけでも戻ってこれると思うから、それだけでも忘れないで!」
「サークル名?」
「これっ!」
 イルーゾォが指さしたポスターには「ここはホ32a『鏡の国の虚像』」と書いてある。どうやらこれがサークル名というものらしい。
「はいよ。そんじゃ行ってくるぜー」
「頼んだ!」
 そう言ったイルーゾォの表情は生き生きとしている。
(なるほど、これが楽しいわけか)
 いつも原稿をやっているときはしんどそうな顔ばかりしているイルーゾォだが、この瞬間のために頑張ってたんだなぁとホルマジオは納得する。
(やっぱり見に来て良かったな)
 知らないことが分かるのは、楽しい。ホルマジオはずっしり重い財布と細かくマーキングされた宝の地図を持って、初の「任務」に繰り出すことにした。



【続く】







気軽に書いてみよう、と思って今年のクソ暑かった夏コミの思い出をイルーゾォに託そうとしたのですが、書いても書いても終わらなくなってしまった。とりあえず途中までうp。イルーゾォはツイッターのイルーゾォbotの設定を借りてるところが多いです。何かもう……イルーゾォってああいうキャラなんだという刷り込みがされててwwww イルーゾォbot大好き!! botの中の人いつもありがとうございます。勝手にセリフ借りてすみません。問題があれば削除するのでご連絡お願いします

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By明日狩り  2010/10/28