朝から良い天気だった。
 気温は低いものの、抜けるような青空が冴え渡っている。
 平日にもかかわらず臨時休業の張り紙を出した成歩堂法律事務所は、所長と相談役、それに連れが2人、そろって外出していた。……とはいえ、寒い中、仕事をサボってピクニックというわけではない。









2月7日 午前10時23分
葉桜院 門前










「わあー、雪がいっぱいだよ!」
 標高の高い葉桜院は雪も多く、吾童山は山道を登るほどに雪が深くなっていく。本当ならば歩いて登ってくるのが修行の決まりらしいのだが、今回の目的は修行ではない。それに、体を壊しがちなゴドーの体調のこともある。

「ワタクシ、初めて『たくしー』で参りました。とっても早いのですね!」
「都会じゃあんまり雪なんて降らないのにね。ここはこんなだよ!」
 真宵が大きく両手を広げて見せる。

 そこは一面の銀世界だった。

 若い二人は着物に薄い上着を羽織っただけの軽装にもかかわらず、元気そうに飛び回っている。
「うう……元気だなぁ」
 ふかふかのダウンジャケットを着込んだ成歩堂はぶるっと体を震わせた。
「クッ、アンタも若いんだ。あれくらい見習いな」

 ゴドーに背中を強く叩かれて、成歩堂は二・三歩前へつんのめる。
「うわっ…………僕はもう若くないですよ。ゴドーさんの方の仲間に入れてください」
「あと三年もしたら、イヤでも三十路の仲間入りだぜ」
「うーん……そういわれると早いなぁ…………」

 ゴドーはカシミヤにウール混の黒いロングコートを着ている。スラリと細長いシルエットは、ダウンを着ている成歩堂とは正反対だ。同じ防寒具でも、選び方と着こなしによってこんなにも変わるものらしい。
(うう……やっぱりゴドーさんカッコイイ…………)

 寒くても、三十路でも、病気がちでも、常に自分のスタイルを貫く。
「そいつがオレのルール、だぜ。まるほどう」
「…………僕の頭の中を読まないで下さい」
 にやりと笑うゴドーに精いっぱいの抵抗を試みても、やっぱりカッコいいものはカッコいい。
 成歩堂は悔しさと照れ隠しと嬉しさの混ざった表情で、葉桜院へと入って行った。







 葉桜院の住職は、相変わらずの明るさで一行を出迎えた。
「あらあらあら、寒いのに頑張って来たわねぇ」
「お久しぶりです! でも、今日はタクシーで来たから楽チンだったの」
「次は修行しにきますから、その時はちゃんと歩いて登ってまいります! 今日はゴドーのおじさまもいらっしゃったので、『たくしー』だったのですよ」
 久しぶりの再会にはしゃぐ二人を相手に、毘忌尼は嬉しそうに丸い体をゆすった。

「元気そうで何よりねぇ。……あれからもう一年も経つのね」
「早いモンですよね。その間にいろんなこともあったし…………ねーーーーーー!なるほどくんっっ!!??」
 突然大声を上げて振り返る真宵に、成歩堂はどんなリアクションをしていいか分からない。
「え、え、え?」
「い、ろ、い、ろ、あったよねーーーーーーー? にしししし」
「ま、ま、真宵ちゃんッ! その笑い方止めてよ!」
「なるほどくんとー、ゴドーさんはー………………」
「や、やめっ……おかしなこと言うなよ!」
「今やひとつ事務所の下で…………ねぇ?」
「ま、ま、ま、真宵ちゃんっっ!!!!」
 意味ありげに笑う真宵を捕まえようと、成歩堂はばたばたと駆け回った。

「クッ……元気だねェ」
「本当に、お元気ですねぇ」
 ゴドーと春美は顔を見合わせて笑った。
「あらあら、アンタ。検事さん」
 そんなゴドーに向かって、毘忌尼は親しげに話しかける。ゴドーはスッと頭を下げた。

「お久しぶりです…………ご住職」
「あらやだ、法廷じゃなきゃ優しい良い子なんだね、アンタも」
 一年前、証人だった毘忌尼をさんざん問い詰めたことを思い出して、ゴドーは苦そうに顔を歪ませた。
「…………………………」
「あらあらあら、良い子だけど真面目すぎるのよねぇ。オバサンもそうなのよね……特に冬は」
 わははは、と陰気な雰囲気を笑い飛ばして、毘忌尼はゴドーを見た。

「よく来たね。ちゃんと……来れたんだね」
「…………逃げようったって、逃げられねえからな」
「バカ言うんじゃないよ。逃げるどころか、一生手放さないって顔してるよ、アンタ」
 毘忌尼が優しい、そして悲しい目でゴドーを見つめる。

「まだまだ時間はかかるだろうけどね。……いつかちゃんと、舞子様を放してあげるんだよ」
「…………そんな難しいこと、オレにできるかね」
 ゴドーは険しい顔でうつむいた。
 毘忌尼の言いたいことは、何となく分かる。罪悪感を背負って生き続けることは、すなわち舞子の魂をいつまでも捕え続けるということだ。
 死者の霊に謝罪し続けること。それが正しいことなのかどうか、今のゴドーには分からない。

「ま、いいでしょ。アンタも今日はこうしてちゃんと来てくれたんだ。それだけで今は充分だよ」
「…………………………」
「さ、みんなで行っといで。ほら、可愛い子をあんまり心配させるんじゃないよ」
 ふと見ると、かたわらの春美が切なそうに眉根を寄せてゴドーを見上げている。話の内容は理解できなくとも、会話の雰囲気を敏感に察したらしい。
「おじさま…………おじさまは、舞子様を捕まえているのですか?」
「…………ああ、そうだな。きっと…………甘えているんだろうぜ」
「そうなのですか………………」
 うつむいてなにやら考えている春美の小さな手を取り、ゴドーはクッと笑って見せる。

「じゃ、お嬢ちゃんがオレの手を捕まえといてくれるかい? そしたらオレは安心だぜ」
「まあ! そんなことでよろしいのですか?」
「ああ、一緒に行こうぜ」
「はいっ。しっかりにぎっていてくださいましね!」
 自分にできることがある、と春美は喜んでゴドーの手を取った。

「おい、まるほどう。そろそろ行こうじゃねえか」
「はぁ…………はぁ…………真宵ちゃんすばしっこい…………」
「へへーん。捕まえられなかったんだから、味噌ラーメンおごりだね、なるほどくん」
「いつの間にそんな約束になったんだよ! もう!」
 ずっと追いかけっこをしていたらしい二人を見て、ゴドーと春美はもう一度顔を見合わせて笑った。

「それじゃ、行って来ます」
「あったかくてホッとするもの用意して待ってるからね……ホットなだけに。わは、わは、わははははは」
「…………………………タノシミニシテイマス」









 つり橋へと向かう道は、すっかり雪に覆われていた。まっさらな雪の上に足跡をつけながら、一行は黙々と歩いていく。
 さっきまでは元気いっぱいだった真宵も、春美も、ここまで来るとさすがにおしゃべりが消えた。それぞれ深く思うところがあり、ひと言も会話を交わさない。

 一年前。
 ここで悲しい事件が起こった。真宵の母が殺され、その犯人は他ならぬゴドーだった。
 被害者の娘と、加害者。本来ならばありえない組み合わせで、一行は事件の現場へと向かう。
(あれからもう一年か…………)
 思えばいろいろなことがあった。けれどあの事件の重さを受け入れるには、一年という時間は短すぎる。
 真宵も、ゴドーも、春美も、そして成歩堂も。それぞれが心の中に葛藤を抱えていた。

 一行は黙ってつり橋を渡る。事件以来修行には使われなくなった修験洞だが、つり橋だけは修復してあった。深い谷の上をそろりそろりと歩いていくと、何だか空の上を歩いているような錯覚に襲われる。ここから落ちた経験のある成歩堂は、体の芯が抜けていくような恐怖を必死でかみ殺していた。
(このまま渡ったら、何があるんだろう…………)

 まだ、そこでは真宵の母が待っているような気がする。
 まだ、そこでは春美が泣いているような気がする。
 まだ、そこでは憎悪と後悔に苛まれるゴドーが潜んでいるような気がする。

「真宵ちゃ…………」
「え、なぁになるほどくん?」
「あ、いや…………」
「なんだいまるほどう。相変わらず高いところは苦手かい?」
「ええ、まあ。そうみたいです。あははは…………」
 思わず呼びかけて、返事があることにホッとした。当たり前のことだけれど、すべてはもう終わったことなのだ。
 真宵は修験洞から助け出され、ゴドーは罪を清算してここにいる。
(おかしなこと考えちゃ、だめだ)

 過去に囚われるために来たのではない。成歩堂はぐっと足と踏み出して、ようやくつり橋を渡りきった。











 修験洞の中庭は、雪が積もったまま誰の手も加わっていない。真っ白な雪に覆われて、低木と石灯籠のありかだけがようやく判別できるような状態だった。

「……………………………………………………」
 誰からともなく、自然と手を合わせる。
 そのまましばらく、全員で黙祷した。

「お母さん、お花だよ」
 真宵が、持って来た花を雪の上にそっと横たえる。
 キキョウ、スイートピー、リンドウ…………。花屋で青や黄色の花ばかり集めて作ってもらったその花束は、雪の上で少し寒々しく見えた。
「真宵様…………舞子様は、青がお好きだったのですか?」
 素朴な疑問を口にする春美に、真宵はうーんと苦笑いをした。
「あたし、あんまりお母さんのこと知らないんだよね。だから、何となく青。キレイで好きだから、安易に決めちゃった。えへへ……」
「そうですか……すみません。ワタクシ、余計なことを申しました」
 落ち込む春美を、真宵は慌ててフォローする。
「気にしないでよー。キレイならいいってはみちゃんも思うよね? お母さんだってきっと喜んでるよ」
「ええ、そうですよね」

 笑顔で言葉を交わし合い、真宵はふとゴドーの傍に寄って来た。
「ね、キレイですよねゴドーさん?」
「ああ…………センスの良いコネコちゃんだな、アンタ」
「わあ! ゴドーさんにセンスが良いって言われたよなるほどくん! しかもコネコちゃんだよ! すごいよあたし!」
「よ、よかったね」

「はみちゃん、ちょっと雪かきしようか? お供え置く場所作らないと」
「そうですね。石灯籠のあたりを少し、お掃除いたしましょう」
「うん! ついでに雪ダルマとか作っちゃおうね!」
「まあ、ワタクシ雪ダルマなら負けません!」
「お、言ったねはみちゃん? 雪ダルマ検定二級のあたしと勝負だよ!」
 きゃあきゃあとはしゃぎまわる真宵は、春美を巻き込んで急に元気を取り戻す。

 ここに来て、吹っ切れたのだろうか。
 それとも、しんみりした空気を吹き飛ばすために、わざとはしゃいでいるのか。
(どっちにしろ…………強い子だな)
 真宵の強さには本当に感心する。成歩堂が小さくため息を吐くと、白い息が寒風にさらわれて流れた。

「たいしたお嬢ちゃんだぜ」
 隣に立っているゴドーが、いつになく硬い声でそう言った。
 独り言なのか、成歩堂に言っているのか。どちらとも分からず返事をしないでいると、ゴドーの白い息が耳にかかった。

「なあ、アンタ分かったかい?」
「え?」
「お嬢ちゃんのセンスさ」
「え、あ……はあ。キレイですよね、青いのも」
「クッ…………どうやらアンタにはセンスがねえみてえだな」
 ゴドーは少し笑って、石灯籠の周りで雪ダルマを作り始めた真宵と春美を眺めた。ゴーグルを着けていても、その慈しむような視線が感じられる。

「お嬢ちゃんは、青を選んだんじゃねえ。…………赤を選ばなかったのさ」
「あ…………ああっ」
「クッ、オレのうぬぼれでなきゃ、そういうこったろうぜ」
 そう言うと、ゴドーはロングコートの裾を翻して、真宵たちのほうへ歩み寄った。辺りの雪を少し払い、持って来たお供えをそこへ並べ始める。
(真宵ちゃん、そこまで考えていたのか……)

 白い雪の上に、赤い花。

 死者に供える献花がゴーグル越しの目に見えなかったとき、それがゴドーにどんな思いを起こさせるか。
 真宵はそこまで考えていたのだろう。

(やっぱり勝てないよ……真宵ちゃん…………)
 思わず目に涙がにじんだ。
 母の一周忌に、その母の命を断った男の心情まで思いやる。さっきから急に元気になって見せたのも、みんなに気を使わせないためなのだろう。
 細やかな気遣いのできる真宵の強さに、成歩堂はそっと涙を堪えて空を見上げた。




「あ………………雪だよ」
 見上げれば、あんなに晴れていた空はいつの間にか真っ白に曇り、風に紛れてちらちらと雪が降り始めている。
「山だから寒いのは当たり前だと思ってたけど、本当に寒かったんだ」
 真宵が空を見上げて大げさに体を震わせる。

「これが終わったら、葉桜院に帰ろう。毘忌尼さんが『ホッとするホットなもの』用意して待っててくれるって言ってたから」
「…………なにそれ、ギャグ? 笑えないよなるほどくん……」
 同情するような目で見られて、成歩堂は慌てて否定した。
「違う! 毘忌尼さんがそう言ったんだよ!」
「ホントかなぁ。あたし聞いてないよ」
「ホントだったら!」

 見ているゴドーと春美が目を見合わせて笑い、そして真宵と成歩堂もつられて笑う。

 四人分の笑い声を乗せて、吾童山の北風が谷間を駆け抜けて行った。






<END>