「じゃあ、ちょっくら行って来るぜ」

 今日はやけに忙しい。誰も昼メシを食べに行く余裕がないから、オレが買い出し係ということになった。
「ざるそば、おにぎり、サンドイッチ…………めんどくせぇな」

 ぶつぶつ言いながら外に出る。
 5月晴れの空は、もう日差しに夏のにおいが混じっている。少し汗ばむくらいの陽気だ。

「暑ィ…………」

 時間を見ようと腕時計をかざしたら、汗ばんだ手から指輪が抜けちまった。


 チャリーン…………。


 涼しい音を立てて、指輪が転がっていく。
「おっとと」
 敷石の上を転がっていく指輪が、壁にぶつかって止まった。


 と、その瞬間、オレの足もぴたりと止まった。


「はい、どうぞ」

 落とした指輪を、拾ってくれた。

 その、小さな手。



「あの、これ、落としましたよ?」


 重そうに指輪を掲げる、小さな体。


「あのー、ゆびわ………………」







「ちひ…………ちひ、だよな…………?」

「ちひゃ? ちひのこと、しってるのですか?」




 オレは、小さなちひをすくい上げるように手に乗せた。

 思い切り抱きしめたい衝動をこらえて、そっと頭を撫でてやる。




「帰ってきたんだな、ちひ」

「ちひ〜。…………ここはちひのいえですか?」



 家かどうか、だって?

 そんなこと、決まってる。


「家じゃねえ。弁護士事務所、さ」

「べんごし! ちひのべんごしじむしょ! ここだったのですか!」









 どうやら、ちひは全部忘れちまったらしい。
 でも、そんなことはどうでも良かった。いや、そこまで気にするだけの余裕がねえ。






 ただ、ちひがここにいる。

 それだけで、コーヒーの味さえ分からなくなるほどの眩暈を覚える。







<続>



 By明日狩り  2005/05/24