| 某月某日 記録者:生倉雪夫 別に、チヒロ君に落ち度はない。悪いところもない。また、私が成人女性に興味のない、いわゆるロリコン趣味なわけでもない。(文句のある奴はかかってきなさい) けれど、こればっかりはどうしようもないではないか。 「なまくらセンパイ、これほっちきすすればいいですか?」 「ああ……頼んでいいかな?」 「できまーす。ちひはおしごとダイスキです」 「偉いな、ちひ君」 「ちひひっ」 あどけなく笑う君の笑顔に、「ちひ君がいてよかった」と涙を流すのは、人として当然のことではないだろうか。 「……ちひ、転んでもいいぞ」 呆れ顔で見ている神乃木が、バカなことを言う。 「ええー、ちひはころばないです。ころんだら、いたいです」 「そうだそうだ。転ぶことないぞ。そんなことしたら……」 口ごもる私を、ちひ君が不思議そうに見上げる。 「ころんだら?」 「あ、いや…………」 どういうわけだかわからないが。 ちひ君は、転ぶとチヒロ君になるらしい。 まったく、事実はアニメより奇なりだ。 |
| 某月某日 記録者:神乃木荘龍 事務所にチヒロが来てから、もう一ヶ月になる。わけもわからず現実だけ受け止めて、とにかく手放しちゃならねえことだけは分かっていた。 そばにいたのに守れなかった。見失っちまった。 ちひが突然消えちまった日のことを思うと、いまだに背筋がぞっとする。 チヒロはすぐに事務所に馴染み……まるで昔からここにいたみてぇに、な……、仕事もてきぱきとこなす。しかも本当の資格を持った正規の弁護士だ。俺たちの手伝いから自分の仕事へ、すぐに移ることができた。 そんな毎日に少しは慣れた頃。 「センパイ、ファックスがきてますよ」 「ああ、悪ぃ。寄越してくれ」 チヒロはファックスを持ってこっちに体をひねり、その瞬間足元の電気コードに絡まって派手に転んだ。 「きゃっ!」 「おいおい、大丈夫かいコネコちゃん……?」 ところがどういうわけか、手を差し伸べたオレの視界には誰もいなかった。 「……………………おい、チヒ……」 オレの背中を寒気が這い上がる。 そのオレの目の前に。 コピー機の足の影から。 小さな影が顔を見せた。 「ちひゃあ。びっくりしたのです」 「…………ち、ひ…………?」 「ちひひっ」 ちひは何事もなかったかのように、オレを見上げて笑った。 |
| 某月某日 記録者:綾里千尋 ようやく、落ち着きました。 いろいろな事情がわかるまでずいぶん時間がかかって、それを受け入れるのにも時間がかかってしまった。でも、ようやく、いろいろなことが現実なんだと思えるようになってきました。 私は、綾里千尋。かつて個人の事務所を開いていた弁護士でした。けれど私は母の敵を追ううちに、あの男に返り討ちにされて……永い眠りについたそうです。眠っている間のことはあまり覚えていません。けれど、ずっと長い間、夢を見ていたような気がするのです。どこかの事務所で、弁護士を目指して働いている夢を。 それはとても楽しい夢でした。だから私は、目が覚めて、長い時間の間に多くを失ったと知らされても、それほど動揺はしませんでした。自分でも驚くくらい、平静で。 行く当てもなくさまよっていた私は、ある日からの記憶がありません。そして気付いたら……机の上でした。弁護士事務所の机の上に、なぜ私がいたのか。それはいまだに分かりません。 私はその弁護士事務所の人たちを、知らないのに知っている気がしました。何よりも、机の上で言葉を失っていた私に声を掛けてくれた人に、こう言ったのです。 「おいおい……いったいどうしたってんだ…………?」 「あっ、神乃木センパイ」 反射的に、その名前が出ました。神乃木という人も知らないし、センパイにそんな人がいたこともないのに。 そこで私は、知らないのに知っている神乃木センパイ、生倉センパイ、星影センセイからいろいろな話を聞きました。「ちひ」という小さな女の子の話も。 それはきっと「弁護士」というものに強く執着していたせいで、私の魂がここへ来ていたということなのでしょう。私にはそうとしか思えませんでした。でも……そんな話を誰が信じてくれるでしょう? けれど。 「…………オレは、信じるぜ」 コーヒーを飲み干して、神乃木センパイはそう言いました。 「信じられなくとも、信じるしかないだろうな。これでは」 難しい顔をして、生倉センパイが言いました。 「チミは間違いなく、この事務所で働いとった。ワシには分かるよ」 温和な表情で、星影センセイが言いました。 だから私は。 今でもこの事務所にいるのです。 |
| 某月某日 記録者:生倉雪夫 ちひ君が戻ってきた。それでいいじゃないか。……そう思えるまで、さして時間はかからなかった。 最初はもちろん、当然のようにちひ君を連れて帰る神乃木に腹も立てたが、いまだに夜な夜な夢に見る「ちひ君のいない日々」に、今の幸福を思い知らされるのだ。ちひ君は誰のものでもない。そこにいる。それで、いいじゃないか。 落ち着きも取り戻し、毎日事務所に行くのが楽しみで仕方ない。そんな日々を送っていたのだが……。 神様がいるのなら、よほど退屈しているのだろう。この世は驚きの連続だ。 「ちひ君、ちょっとそこの手紙に切手を貼ってくれないかな」 「は〜い!」 私の机の上で、ちひ君はちょこちょこと一生懸命働いてくれる。仕事があるとなると、ちひ君は神乃木のことなど簡単に見捨てて、私のところへ駆けつけてくれるのだ。 「お洋服に貼り付かないように、気をつけます!」 「うんうん」 見ているだけで魂が口から出そうになるが、涼しい顔を作って、仕事を続ける。 手元の資料に目を落とした、そのわずかな一瞬に。 こてっ。 小さな音が。 ちひ君が転んだのだろうか。私は慌てて顔を上げた。 『大丈夫かい、ちひ君?』 そう言おうとした私の口は、あんぐりと開いたまま、ふさぐこともできない。 机の上を、見て。 視線が上へ上へと。 上がっていって。 「あ……あ……あ………………」 「あ、あの………………」 私の机の上には。 小さなちひ君ではなく。 はちきれんばかりの体を黒いスーツで包んだ…………。 「あの…………ええと」 「………………………………」 困り顔の若い女性が、本物のオトナの人間が、私の机の上に座り込んでいたのだった…………。 ちひ君と同じ服を着た、ちひ君と同じ顔の。 けれどちひ君の何百倍もある、オトナの女性だった。 |
| 某月某日 記録者:神乃木荘龍 「ちひ、お前どっから来たんだ?」 「ええと、ちひのおうちです」 「ちひ君、おうちはどこにあるのかね?」 「ええと、でんしゃのしたです」 ちひに案内されて行ってみると、ちひの家は、見覚えのある場所に、見覚えのある形で置いてあった。 確かにあの時も、ココに案内された。線路の高架下の薄暗い影に、けれどあのときにはもうちひの家はなくなっていた。「ここにおうちがあったはずなのに」とうろたえるちひを、オレはオレのマンションに連れて帰ったんだ。 今日は、確かにそこに「ちひの家」があった。薄汚れたクッキー缶は、ついこの間までちひが使っていたのと同じメーカーの缶だ。 「ちひ。……あんた、こんなところにいちゃいけないぜ」 「ちひゃ?」 「うちに来な。レディがこんな湿っぽいところにいちゃ、病気しちゃうぜ」 ちひはちょっと呆けたような顔でオレをぽかんと見上げていたが、初夏の日差しのようにぱっと笑った。 「はいっ!」 「ちょ、ちょっと待て神乃木! 今度こそちひ君のことには私も権利があるのではないかね!? 勝手に話を決めるなど……」 「ちひ、うちにきれいな缶があるから、そっちにしな。こいつはここへ置いていこうぜ」 「はーい」 オレはやかましくわめくぼんくらセンパイを置き去りにして、ちひをそっとポケットにしまった。 |