長い長い眠りから覚めてみたら そこにはもう、オレの居場所はなかった 生きる意味も、生きる目的もなく 「復讐」 ただひとつ見出したその二文字のためだけに オレは、オレに残されたすべてをそのために使い果たす。 オレの、最後の最後の残りカスまでも。 |
| ZANSHI |
残 滓 〜1章「志操」 前編〜 |
| SHISOU |
「検事になりてえ。アンタなら何とかしてくれるんだろう?」 その男はズボンのポケットに手を突っ込んだままの姿勢で、不敵な笑みを浮かべた。 ふてぶてしいと言うか、怖いもの知らずというか。 これまでさまざまな局面を凌いできた検事局長も、呆れるべきか笑うべきか、それとも怒るべきか、とっさには分からなかった。 ただ、苦笑が漏れる。 「キミは、何だね」 「ゴドー。伝説の検事になる男、だぜ」 「伝説の、ね」 後藤だか御堂だか知らないが、あまりに唐突千万。無礼にもほどがある。 いっそ怒鳴りつけてやろうかとも思ったが、優に百八十センチはあるであろう長身の男を前にして、考えなしに口が出るほど愚かではなかった。そんなことはないだろうが、万が一暴れられでもしたらやっかいだ。 検事局。罪を裁く男たちが集うこの場所で、これほど傍若無人に振舞える者もそう多くはない。ましてやここは、その最も高いところ、局長室である。 防犯のためほとんど窓がないこの部屋は、四方を壁と重厚な家具に囲まれ、入る者に威圧感を与える。しかし男は怖気づいた風もなく、堂々と局長の前に立ちはだかっていた。 「…………………………」 本棚の前に設えた革張りの椅子に深々と体を沈め、局長はデスクをはさんで真正面に立っている男をじろじろと眺めた。 上から、下へ。 身長も肩幅も大きいが、服の上からでも分かる細腰がアンバランスで目を引く。銀色のアームバンドで留めた長袖の中身も、かなり細いようだ。大振りの体を支える両脚も柳のようにすらりとしている。 もう一度、視線を上へ。 何のつもりかは知らないが、まるで子供の玩具のような仮面を着けている。その下に隠された素顔は見えなかったが、尖った顎からいささか痩せこけた印象を受けた。 「その仮面も、伝説の玩具かね」 机に両肘を突き、顎を支えて、目だけを男に向ける。 「クッ…………」 男は苦笑とも嘲笑ともつかない声を咽喉から漏らし、首を傾けた。 仮面に隠されて見えないはずの視線が、局長を見下ろす。 「そうかもしれねえな」 「何でもいい。とにかくそいつを外したまえ。失敬だ」 身動きひとつせず、声のトーンを下げて命令する。命令することに慣れた男の、有無を言わさぬ口調である。 しかし男が従う気配はない。 悪びれた様子もなく、また咽喉で笑った。 「クッ、こいつだけはカンベンしてくれ。局長さんよ」 「何だね、それがないと伝説の剣と盾が手に入らないとでもいうのかね」 嘲笑すると、男はさすがに不愉快な表情を見せた。 「…………これがないと、何も見えねえんだ」 「そうか。ならば着用を許可しよう。しかしだ」 あくまでも感情を表に出さない声で、局長は言葉を続ける。 「キミのような男を我が検事局へ入れるわけにはいかんな」 「…………だろうな。言うと思ったぜ」 「そうだろう」 男があっさりと引き下がったので、いささか拍子抜けする。が、いつまでもこんな男の相手をしているほど暇ではなかった。 短く息を吐き、デスクに載せられた秘書のメモに目を走らせる。仕事にかかろうと手元の電話機に手を伸ばした局長は、男がそこに突っ立ったままなのを見て、顔をしかめた。 「…………何をしている」 てっきり立ち去るものだと思っていたのだが、どうやら話はまだ終わっていないらしかった。 「だから、オレはどうしても検事にならなけりゃならねえんだ」 「そんなことは知らん。私は忙しいのだ」 「そうだろうぜ。だからこそ、手短に決めちまおうじゃねえか。オレを検事にしな」 「できないと言っている」 「話を短くするんじゃなかったのか。それじゃいつまでも終わらねえぜ」 「馬鹿馬鹿しい。話にならんよ」 「話になるかどうかは、アンタ次第だ」 要するに、『検事になれるまで立ち去る気はない』ということだ。 (それにしては、子供じみている……) 交渉する気も、脅迫する気もないのだろうか。さっきからのやり取りを見ていると、この男はこれ以上何かの切り札を出す用意もないようだ。 ただ、検事になりたい。 検事になれるまで、ここを動かない。 一人前の男が無茶な相談を持ちかけてくるにしては、あまりにも能がなかった。 「…………私次第、か」 確かに、そうかもしれない。 このまま警備室に連絡し、この男をつまみ出すことはたやすかった。だが、つまらないことをつまらないままに見過ごすような凡人では、検事局長という今の地位は手に入ってはいない。 局長は、もう一度男を眺めた。 見たところ、三十路には足を踏み入れているだろう。にもかかわらず、頭髪は見事に真っ白だ。そういう体質か、それとも脱色しているのか。 「髪を染めるような不良は、私の庭へ入れたくないのだが」 冷たい声で問うと、男はさっき……顔に着けたゴーグルのことに触れられたとき……と同じ、機嫌の悪そうな声で答えた。 「不良じゃねえ、地毛さ。悪い病気にかかっちまってな」 「そうか、それは失礼した」 目といい、髪といい、それにその見るからに細い体型といい、あまり健康そうではない。 (どんな事情があるのやら……後で調べさせるか) 「ゴドー君、とかいったね」 「ああ、ゴドー、だ」 「本名、年齢、国籍、経歴、それから当然、資格もだ。そういうものがないと検事にはなれないのだよ。……義務教育からやり直して来たまえ」 「資格だけなら、持ってるぜ。司法試験合格、それにアンタを満足させるだけの技量と知識。テストならいくらでも受けてやるが、どうだい?」 (……実力だけでどうこうするつもりか、このバカめ) 不完全な体に、謎だらけの本性。それでもこの男は検事局のトップに直接交渉し、なおかつ検事になりおおせようと本気で考えているらしい。 気違いか、天才か。 (どっちでも構わん) どちらにしろ、今局長が手中に収めようとしているモノは同じだった。両手を胸の前で組み、局長は下から男の顔を睨み上げる。 ふてぶてしい笑いを浮かべてこちらを見下ろしているが、仮面の下に隠した虚勢を見抜けないほど間抜けではない。切り札のひとつも持たない男が張る薄っぺらな虚勢など、紙の盾にも等しかった。 (フッ…………) 何も知らず、何の力もなく、何もかも見抜かれ、それでも胸を張って立つ男が哀れで、局長は心の中で苦笑いする。 だが、それは憐憫の情ではなかった。小さい者の弱さを哀れむ情など、局長にはかけらもない。あるのはただ、弱いものを踏みにじる快感だけだ。 (それが生きるものすべての本能、というものなのだよ、ゴドー君……) 「……そうだな、相手ならしてやらないこともない」 机に肘を付き、顎を乗せて、局長は嘲笑する口元を巧妙に隠しつつ呟いた。 「案外、話が分かるんだな……嫌いじゃないぜ」 やれやれ、という風に小首を傾げてみせるゴドーも、心なしかほっとした様子だ。 (その気の緩みが、弱点を突いてくれと言っているようなものなのだよ?) 胸が疼く。 久しく忘れていた感覚だった。 検事局の頂点に立ち、人を使うことには慣れ切っている。時には他人を貶め、虐げることも辞さなかった局長の、狩猟本能とも言うべきものが頭をもたげる。 嘘とプライドで固めた仮面をじっくりと剥いでいき、その手からじわじわと奪っていく。次第に余裕をなくし、取り乱す獲物の様子を味わうのは、支配者にのみ与えられた特権だ。 (私を甘く見るな) 局長は心の中で呟いた。 傲岸不遜な男をもう一度、今度は狩猟者の眼で仔細に眺める。 気障な印象を与える服装。若くはないが、粋がっている感じが生意気で、局長に言わせれば「若造」といったところだ。肉の薄い細い体つきは好みのタイプで、特にその華奢な腰つきは、局長の胸をさらに疼かせる。 視線だけで、その腰のラインをなぞる。滑らかな曲線に、年甲斐もなく心拍数が上がった。 「ゴドー君」 こちらの内心の糸口だけでもつかまれれば、舐められることは分かっている。局長は感情を一切読み取らせないよう、低い声で呟くように名を呼んだ。 ゴドーは何も言わず、黙ってこちらの顔を見下ろしている。もっとも仮面の下に隠れた両眼には、どんな未来も見えてはいないだろうが。 局長は、今度こそ隠すことなく、ニヤリと笑って見せた。 「ならば、私の言うことを聞いてもらわねば、ならんな」 「………………」 「ここは検事局。私の支配する世界だ。貴様はそこへ土足で踏み込もうとしている」 「入れてくれ、と頼んでいるだけだぜ」 「同じだよ。自分のことは何も明かさず、ただ私の城を闊歩したいというのでは、所詮泥棒と一緒ではないかね?」 「クッ……」 嘲りか、悔し紛れか、ゴドーの唇がかすかに歪む。言われたことが間違っていないと、理解しているようだ。 (そんなことでは、私を利用することなど到底できないな……フフフ) この瞬間、勝敗が決した。 獲物は完全に、罠の中心に歩み寄っている。あとはその留め具を局長自らの手で外すだけだ。 こみ上げる笑いが隠せない。クックッと咽喉で笑って、ゴドーを睨み上げた。 「みすみす我が城を汚させることはできない……が、私の役に立つモノであれば、飼っておいても良いと考えている」 「ずいぶんと偉そうじゃねえか」 言い方が気に入らなかったのだろう。不機嫌そうな声で楯突いてくるゴドーは、まるで怖いもの知らずの悪ガキのようだ。 「偉いのだよ。そして、寛大でもある」 局長は失笑して、目を細めた。 「君を検事にする権限は、私にしかない」 「ああ、知ってる」 「そして私は君を、望むとおりに仕立て上げてやる気もあるのだよ」 「そうかい」 手放しで喜ぶかと思ったが、一瞬だけ間があった。さすがにこちらの雰囲気を察しているのだろう。一呼吸あって、ゴドーはクッと笑った。 「俺は検事にならなきゃならねえんだ……どうあってもな」 口元は笑ったように歪んでいるが、声は決して笑っていない。むしろ何かに挑みかかるような口調だ。 (……賢い者は嫌いではない) バカは使い捨てるもの、賢い者は使い込むものと決まっている。 (どこまで楽しませてくれるのかな……君は) すぐに逃げ出すかもしれない。弱音を吐くかもしれない。そういう、上っ面だけの人間なら今まで何人も見てきた。 しかしこの男……ゴドーは、違う。おかしな格好と不躾な態度の裏には、確固たる信念がある。何かを貫くための覚悟が、この男からは感じられた。 (試させてもらおうか……ゴドーとやら) 局長は目を閉じ、ゆっくりと立ち上がった。刺すような視線でゴドーを射抜くと、思ったとおり、怯むことなく真っ向から睨んでくる。その活きのよさに、局長は我知らず口元が歪んだ。 ダンヒルのダブルのスーツに身を包み、局長はゴドーに足を向ける。局長室の厚い壁は、ほとんどの雑音を遮断する。無音に近い室内に、自らの革靴が床を踏む音だけが、無機質に響いた。 時計の針音のような、非情で正確な靴音に、ゴドーは思わず息を飲んだ。かすかに息苦しい。 (かかってきやがれ……) 不穏な空気を察して、ゴドーは胸中で自分を叱咤する。 局長の読みは正しかった。ゴドーにはどうしても検事になるという「覚悟」があり、そのためならどんな汚いことでもし、どんな人生の裏道だって歩いてみせるつもりだ。 すべてを失った男には、ただひとつの生きる理由しか残されていなかった。そのためだけに、ゴドーはこの場所に立っている。 検事、になること。 それが目的を果たすためのただひとつの手段であり、生きるための唯一の方法だ。そして、それを叶えられる力を持っているのはただ一人、この検事局長だけである。 「背が高いね」 間近に歩み寄り、顎を引いて、下から睨めつけるような視線をゴドーの首筋に這わせる。値踏みするかのようなその目に、ゴドーは生理的な嫌悪感を覚えた。権力者の多くが身につけている、独特の汚らわしさが局長にもあった。 「何センチあるんだね」 「百八十チョイだ」 「正確には?」 「…………百八十五」 「最初からそう言いたまえ」 (どうだっていいじゃねえか……) 細かいことにこだわるその言い方が、癇に障る。手の届くほどの距離まで詰め寄り、間近でゴドーを観察する局長に、ますます嫌悪感は募った。 顔から体をじっくりと眺め、そして後ろへと回る。何を観察しているのかは知らないが、ぐるりと体を一周して、局長はゴドーの真正面に立った。 「ゴドー君……だったね」 「そうだ」 その瞬間、我知らず鳥肌が立つ。局長の口調がさっきまでと違って聞こえるのは、気のせいなのだろうか。わざとらしく響く「ゴドー君」の一言が、毛虫か何かのようにゴドーの首筋にまとわりついた。 「君には、私の命令をひとつ残さず聞いてもらうことになる」 (おいでなすった) そうくるだろう、と思っていた。先ほどからの局長の態度を見ていれば、ただで済むはずがないことは分かっていた。 検事局長という男の権力を借りるために、それ相応の見返りを要求される。 (当然、だな) 予想通りの展開だった。……少なくとも、さっきまでならそう思えた。 ゴドーは無意識に首筋に手をやる。不快な毒虫がそこを這っているような気がしたのだ。 「…………………………」 ゴドーは何も言わず、息を詰めた。 本当ならここで平然として、「ギブアンドテイクの原則くらい、知ってるぜ」と言ってやるつもりだった。黒い噂の絶えない検事局長のことだ。弱みを握った男を手駒に加えれば、あくどい仕事にこき使うに決まっていた。裏工作だの根回しだの、時には取り返しのつかないようなことにさえ手を染めなければならなくなるかもしれない。 そこまで覚悟はしていたはずだったが、ゴドーは何も言えなくなっていた。局長に対する嫌悪感が膨らんで、咽喉が塞がる思いだ。 ……これが威圧感、というものなのだろうか。いや、それよりはもっと本能に近い感覚だ。 「自分の要求だけ飲んでもらおうなどと、そこまで君は子供ではないはずだ……そう信じていいかね」 「……そうだな」 局長は満足そうにうなずき、両手を後ろで組んで斜めにゴドーを見上げた。 「ならば、契約だ」 「契約?」 腹芸と暗黙の了解で進められてきた話し合いに、突如固い言葉が出てきて、ゴドーは違和感を覚えた。 「私と、契約をしてもらおう」 「お偉いさんってのはくだらねえことを考えつくんだな」 「ははは……何も悪魔の契約書に血でサインをしてもらおうというのではないよ。形骸的なことは嫌いな性質でね」 局長はそう言いながら、まるで悪魔のような笑みを顔に浮かべた。 「私は君に検事の資格を、肩書きを、立場を与えよう。君はそれを自由に使うといい」 「…………………………」 「そしてその代わりに、私は君を自由に使う。私が君の立場を守れなくなったら、契約は終了だ。それと同時に、契約中のすべての情報は破棄することを約束しよう」 「……なるほどな」 悪い契約ではなかった。少なくとも、ゴドーを検事でいさせるという最低限の保証はするつもりらしい。それにいつまでもこのことで脅されたり利用されたりすることはない、と約束もしている。 すべてはゴドーが検事でいる間だけに限り、しかしその間だけはどんなことを命じられても文句は言えない。 (さすが、チカラの使い方ってやつをよく解ってるぜ……胸糞悪ィ……) 「どうするね、ゴドー君とやら」 「……それでいい」 短く答えて、ゴドーはクッと咽喉で嘲笑した。 (もっとも、どこまで信用できるか分かったモンじゃねえけどな……) 所詮は口約束でしかない。何があっても訴えることはできず、被害を被るのはゴドーのほうだけだ。しかしそう答える以外、ゴドーにはどんな選択肢もない。 局長はもう一度満足そうにうなずき、一歩後ろに下がった。 「では、契約の証しにこれを」 そう言うと、自らのスーツの襟元に手をやり、そこに付いていた小さなバッヂをこともなげに取り外した。 検事バッヂ。通称を『秋霜烈日』といい、検事であることを証明する菊の紋だ。 ゴドーは怪訝な顔をして、目の前に突きつけられたそれを見つめている。 「もちろん君のためのバッヂは後で用意させる。今はひとまず、これを預けておこう。……これでも不安かね?」 「……いや、別に構わねぇが……」 こんな大切なものをほんの十数分前に会ったばかりの男に気軽に渡してしまう、その局長の気が知れなかった。戸惑うゴドーの内心を読んだのか、局長は苦笑して、手のひらに乗せたバッヂを見せびらかすように弄ぶ。 「私は信頼関係、というやつを何よりも大切にしていてね。嫌なら帰るがいい」 「…………分かった、受け取ろう」 自然と鳩尾の辺りに力が入る。ゴドーは強張る体を前へ出して、差し伸べられた手からバッヂを受け取った。 ずしり、と重い。 思わず手が震えそうになったのをとっさに堪えて、ゴドーはそれをじっと眺めた。 何か、取り返しのつかないことをしてしまったような、途方もない予感があった。 ゴドーの復讐、局長の陰謀。 悪を裁く象徴であるはずのバッヂは、今、悪しき計画のために権力者の手から渡された。その矛盾した存在を、ゴドーはどう受け止めていいか分からないでいる。 「さあ、ゴドー君」 局長の嬉しそうな声が、ゴドーを現実へと引き戻した。はっと顔を上げると、そこには気味が悪いくらい晴れやかな顔をした局長が、こちらを見て笑っている。 「君からも証しを渡してもらおう」 「証し……?」 何も考えていなかった。もはや完全に局長のペースに乗せられたまま、ゴドーは訊ねた。 「何をくれてやりゃあいいんだ?」 「私は君に検事の証しを渡した。……ならば君は、私に忠誠の証しを示してもらおう」 局長の目はまっすぐにゴドーを捕らえ、異様な輝きを放っている。不自由なゴーグルの視界でも、その異変は見て取れた。 (何だ…………コイツ…………?) 不気味な、何か得体の知れないものがいる。ゴドーは手の中のバッヂを握り、小さく息を飲んだ。 局長の口が開く。 「ここで裸になりたまえ」 その声は、やけに低く耳に届いた。 <To be continued..........> |
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| by明日狩り 2004/7/25 |