ゴドー・神乃木荘龍へのこだわり


こんにちは、考察トークのネタがつきました。明日狩りです。

逆裁は2の発売日に大々的なキャンペーンをしているのを見たのがきっかけで始め、それ以来ずっと普通に大好きなゲームで、でもコーヒー検事のせいでサイトや同人誌まで手を出して……という、私の経歴は結構あちこちで書いているので、もうご存知の方もいらっしゃるかと思います。
そんな私の、神乃木荘龍に対するこだわり、ちょっと書いておこうかなって思っちゃったり。自分メモみたいなものです。もし読んで「そう思う〜!」という方がいたら、すごく嬉しいなぁとか思いながら。

あと、あくまでも私個人の、自分のゴドーさんへのこだわりです。見るもの読むものが下記の条件に反していてもおいしくいただけます。特定の誰かを非難したり、異議があったりするわけではありません。あくまでも、自分しばりで。自縛で。


こだわり1:神乃木荘龍は、ゴドー。そしてゴドーはずっとゴドーのまま、神乃木荘龍にも戻る。


いきなり意味が分かりません。でもこれって私の中では譲れない大事なコトです。
神乃木荘龍が永い眠りにつき、目覚め、そしてゴドーを名乗る。仮面を着けて仮の名を名乗る彼を偽りの姿と考えることもできますが、神乃木がその道を選んで足を踏み出してしまった以上、それは彼自身に他ならないと思います。名を変えようとも、容貌を変えようとも、自分が自分でなくなることなんてできっこない。神乃木荘龍という男には、特にそれをして欲しくない。

自分を捨てるということは、見果てぬ逃げ道だと思うのです。けっきょく人間は、受け入れることでしか生きられない。逃げることでは生きられない。逃げ切ることなんてできない。その運命が重ければ重いほど、受け入れるしかないと思うんです。だから、ゴドーを名乗った神乃木は逃げていたんじゃない。逃げたつもりでも、逃げられてはいない。なぜならゴドーという名で歩き始めたその道は、神乃木荘龍の延長線上にしか続かないから。


エンディングでゴドーさんが「よかったら……おぼえておいてくれるかい? オレの名前は……神乃木 荘龍、だぜ。」と言うシーンがあります。ちゃんと受け入れてます。そして私は思うのです。
神乃木荘龍を名乗ったゴドーは、ゴドーの名を捨てない。
この後彼は罪を償い、生きていくことになる。そのときにかつて自分がゴドーとして誤った道を歩んでいたことを、忘れて欲しくない。そして、それが過ちだったとしても、否定して欲しくないと思います。

ゴドーとしてまるほどうを追い、執着し続け、果てはあまり正しいとはいえない道を選んでしまった。けれど、そうしなければ神乃木荘龍は生きられなかった。千尋を守れず、ちなみを裁けず、何も残されていない状況から立ち上がるためには、まるほどうを憎むしかなかった。もし仮に神乃木荘龍が、毒の眠りから目覚めたあの朝から人生をやり直せたとしても、同じことを繰り返すでしょう。なにしろそうしなければ生きられなかった、のだから。

自分で選んだ、道。
そこを歩んできた、自分。
それを受け入れられる男であって欲しいと思うのです。ゴドーの存在が間違っていたといって、否定したり消し去ったりして欲しくない。自分がゴドーであったことも、また、自分の一部だと受け入れて欲しい。



だから、私のゴドーは事件の後もゴドーを名乗ります。真宵ちゃんが「神乃木・G・荘龍」という名前をひねり出してくれて、彼はそれをとても気に入ります。そうして御剣は「神乃木荘龍氏」と呼び、まるほどうは「ゴドーさん」と呼ぶ。みんな、自分にとってのゴドー・神乃木荘龍を大切にしている。そしてゴドーは「どっちだってかまわねえ。同じだから、な」と思っている。名乗るときも「神乃木・ゴドー・荘龍だぜ」と言って、相手が混乱するのを面白がっている。そういうのがいいです。


こだわり2:ゴドーの傷は左の眉の上


みなさん鼻の頭の上、っていうの描きますよね。3の攻略本にあった神乃木ラフ画にそれっぽいものがあったのが全般的に認められているんでしょうか。あれ、私はゴーグルの影の線だと思ったんですが。うーん、アレが傷というのは、個人的には納得いかない。

以下、無粋な話。逆裁にリアリティを求めてはいけないと知りつつも、リアリティ好きの私はつい考えてしまう。

そもそも鼻ってのは出っ張ってて、ああいう傷はつかないんですよ。天下御免の向こう傷ってのはおでこにばっさりとつくものだし、鼻の上をああいう形に真一文字に横切る傷ってのは、まともな戦闘じゃ絶対につかない。拷問とか、見せしめのためとか、意識的に傷つけようとしないと無理です。
ましてや相手は自分より背の低いちなみ。女の手であんな小刀で低い位置から背の高い相手の顔面を狙えば、「下から上」の傷がつくはずです。ゴーグルを吹っ飛ばした、という証言からも、ゴーグルの下をひっかけつつ上に向かって小刀を走らせたと考えるほうが無理がない。真横に刀を引くのは難しい。

右手に刀を持ったちなみが、背の高い相手の顔面を狙って下から上へと攻撃をかける。ゴドーは後ろへ背を反らすか、あるいは右のほうへ避けようとする。ゴーグルが吹っ飛び、ゴドーの顔が傷つく。想像してみてください。
ちなみの小刀の切っ先は、ゴドーさんの顔面左側を、向かって右下から左上へと走るはずです。
そしてゴドーはその傷を、ゴーグルの下に隠して法廷に出た。隠せる位置は、3つ。

1、目の下あたりの、頬骨の上。
2、左目直撃。
3、左目の上から額にかけて。

ゴーグルを吹っ飛ばしたことを考えると、1が最もありえそうです。……でも、あんまりかっこよくないから……(笑)
目を傷つけてしまうのもちょっと心苦しい上に、ゴドーさんは目を潰された云々という発言をしていないので、2は多分ないです。そもそも目を傷つけたのなら、ちょっとやそっとじゃ傷がふさがらないかもしれない……。
かっこよさとオレ理論を考慮すると、うちのゴドーさんは3の傷を負っているようです。

そんなわけで、ゴドー傷は「左の眉の上」です。ななめにね。


こだわり3:ゴドーは死にたくない。


最初の頃、私のゴドーさんは死にたがりでした。3の事件直後、死を選ぶと思っていました。そもそもまるほどうにこだわっていたのも、終わり損ねた自分の時間をまるほどうの手で終わらせて欲しいと願っていたからじゃないかと思っていて。自分の考えが間違いだったことを立証され、守るどころか真宵のお母さんを殺してしまった。たとえまるほどうや真宵がゴドーを許したとしても、彼は絶対に自分自身を許さない気がしていました。そういう頑固なところがゴドーにはあったからです。

でも、そうじゃないと言ったのは忍城さんでした。「ゴドーさんはまるほどうといるうちに、楽しくなっちゃったんだよ。生きてることが楽しくなって、まるほどうのそばにいると生きられるんだよ」というのが忍城さんのゴドーでした。合同誌を作るときにお互いのゴドー観をすり合わせ、私はそういうゴドーさんのほうがいいな、と思いました。

死にたがりのゴドーなんて、カッコつかねえぜ!

死にたがりは、どんなにカッコつけても、ただの逃げたがり。無様でも生き延びて、そうして自分の生き方をいつか誇れるものに変えていく。そういうのがカッコイイ。ハードボイルドじゃないかもしれないけど、ゴドーさんにはそういう形でカッコよくあって欲しい。

……でも私は死にネタ好きなので、ゴドーさんの寿命はあと3年くらいだと思ってます。生きたいことと、生きられることは、また別で。


こだわり4:ゴドーはチヒロに会わない。


霊媒というものがあたりまえのように存在する逆転裁判。個人的にはそこが一番、ついていけない点でもあります。死んだ人には会えない、死人に口なし、だからこそ人はどうしようもない壁にぶつかるのだし、犯罪の真実を暴くのは容易なことではない。でも死んだ人にあんなに簡単に会えちゃったら、ヒューマンドラマの何割が色あせたものになるんでしょう。
……もちろん、死んだ人に会えることで救われる人はたくさんいる。でも、それってちょっと安易な結末じゃないかと思うんですよ。ゴドーさんはチヒロに気の利いた一言を言ってもらえれば、ずいぶん生きるのが楽になるんじゃないかと思う。でも、そんな生き方はゴドーさんには似合わない。
いや、似合わないと言うのなら、ようやくめぐり合えたお母さんと言葉を交わすまもなく死に別れてしまった真宵も同じです。真宵が死んだお母さんを霊媒してもらって会うのは似合わない。そもそも真宵は、死んだお姉ちゃんの霊とも会話した様子がない。ゲームでは進行の都合上、簡単に千尋さんが相談に乗ってくれますが、現実問題としてはそれはあまりあってはいけないことなのではないかと。

なので、ゴドーさんとチヒロを会わせることは、私はしないつもりです。死んだ人は、永遠に死んだ人。永遠に、会えない人。たとえビデオが残っていても、手紙が残っていても、その人が発する新しい言葉は、永遠に聞けない。それが、死の痛み。
そういう痛みがあるからこそ、ゴドーはかっこよくなれるんじゃないかと思うのです。かっこよく、そして無様に、ゴドーさんには生きて欲しい。

真宵が姉や母に会えないこと、ゴドーがチヒロに会えないこと、そしていずれキミ子が死刑になったら、春美も母に会えないように。そういう何かしらの設定を、自分の中で作りたいです。こじつけでもいいから、「死」に対して敬虔な距離をとれるような設定を作りたい。


今後も増えていくかもしれません。