STRAY CAT









 冷たい雨が降っている。

 暗い街には人通りもなく、ただ雨の降る音だけが、無言のつぶやきのように町を覆いつくしていた。

 その激しい雨音の中を泳ぐようにして、黒い影が揺らめく。

 この雨をさえぎる傘もなく、大きな体を窮屈そうに折りたたんで、足元の水溜りを蹴散らす。全身ずぶ濡れになりながらも、影はまっすぐに公園を抜けて行った。



「先生…………」

 大きな家の前で、途方に暮れたように立ち止まる。が、そうしているだけでも雨の冷たさに食われそうで、影はぶるっと身を震わせた。

 意を決して、インタフォンを押す。


 ピンポーン。


 その軽やかなチャイムの音が、冷えた体には何か別の世界のことのように聞こえる。

(…………いねぇのかい)

 見上げても、明かりの付いていない窓が冷たく光っているばかりだ。

(先生…………)



 もう、帰ろう。

 ここは、自分の居場所じゃない。



 ……そんな風に思って、きびすを返そうとした瞬間だった。

「君か」

 玄関の白い扉が開いた。

 てっきりインタフォンから聞こえると思っていた声は、ほんの数メートル先にいる男から直にかけられる。

「先生……これ……」

 影……神乃木は、びしょ濡れで重くなった学生服の前を開き、彼の「先生」に見せた。


 その中には、小さなコネコが、小さく小さくなってかくまわれていた。


「バカな奴らに……排水溝に投げられたんだ…………まだ息してるけど……こんなに小せぇし……ぶるぶるしてて……」

 神乃木は、必死で「先生」にすがる。

「助けてくれよ……先生」


「助けて欲しいのは……子猫か、それとも…………君のほうかい?」


 「先生」はメガネを指で押し上げ、神乃木に手を差し伸べた。

「早く入りなさい」

「………………はい」

 神乃木は胸に抱いたコネコをかばうように背中を丸め、招かれるままに家の中に入っていく。


 その家の表札には、「御剣」と記されていた。

















 御剣信。

 敏腕弁護士として知られた男である。

 常日頃からケンカを繰り返していた神乃木が、あるとき傷害事件を起こした。そのとき親身になって神乃木に味方したのが、御剣弁護士だったのだ。

 それ以来御剣弁護士は、誰にもなつかない野良猫のような神乃木にとってたった一人の頼れる存在になっていた。

「とにかく、体を温めなさい。ネコもヒトもね」

「すみません……」

 御剣は小さななべで温めたミルクを、平皿とマグカップに注いで差し出した。
 ネコは皿から、ヒトはカップから、甘くて温かいミルクを飲み始める。

「おや、子猫のほうは案外と元気だね」

 温かいミルクに誘われたのか、今までぐったりしていたコネコはしっかりと四足をふんばって皿を舐めている。

「ほんとだ…………」

 神乃木はぼんやりとカップを抱えて、頑張るコネコを眺めている。

 コーヒーを注いだ自前のカップに口をつけて、御剣は苦笑した。


「こっちのコネコにも、もうちょっと元気が出ると良いんだがね」

 「こっちのコネコ」の意味が分からず、神乃木はまだぼんやりした顔で彼の「先生」に目を向ける。

「ほら、これ」

 御剣の指が、カップを持つ神乃木の左手を指した。装飾のある大振りのシルバーリングがごてごてと嵌められた左手は、雨でびしょびしょに濡れているにもかかわらず、真っ赤な鮮血がまとわりついている。

「…………コネコのじゃねえよ」

「わかっているよ」

 御剣は悲しそうな顔もせず、いつものように薄い笑顔を浮かべた。

「神乃木君」

「………………………………」

「人の血はね、自分をも傷つけるものなのだよ」

「………………でも」

「そんな顔をするものじゃない」

 憮然として……まるで涙をこらえる子供のような神乃木に、御剣は笑って見せる。



「オトコはね、ピンチのときほどふてぶてしく笑わなきゃいけないよ」



「……………………」

 神乃木は背中を丸めて、カップの端をかじった。

 何も言わない神乃木に嫌な顔ひとつせず、彼の「先生」はにっこりと笑う。


「オトコの武器は、コブシじゃない」

「……………………」

「そんなものを武器にするのは、弱い証拠だ」

「……………………そうだろうぜ」

「分かってるんだろう? ……君は賢い子だからね」



 御剣はそっと神乃木の左手を取り、血にまみれたシルバーリングを外す。

 ひとつ、ふたつ……。

 神乃木は抵抗もせず、じっと「先生」のすることを眺めている。

 シルバーリングはケンカのとき、威力を高める武器だ。
 それが、鎧を剥ぐように、ひとつずつ外されていく。


「君はもっと強い武器を持っているのだよ。……もう、こんなものは捨てると良い」

 血まみれのリングをじゃらじゃらと手の上で遊ばせて、御剣は不敵に微笑む。

(ああ……これがオトコの武器だ……)

 神乃木はそう思う。
 ちゃちな指輪でコブシを固めても、それが人の血で染まっても、この笑みには何者も敵わない。
 ……そんな気がした。

「先生……」

「君は今より強くなるよ」

 さすが弁護士、ということだろうか。その言葉はどんなパンチよりも重く、強く、神乃木を打つ。



 神乃木は左手を握り締める。そこにはひとつだけ、一番シンプルなリングが残されていた。

「それだけは残しておいてあげるけど、武器にはしちゃいけない。君は、コブシに頼らないオトコになりなさい」

「……………………はい」

 人差し指に残されたリングは、戒めだ。このコブシで、このリングで、人を傷つけてきたことを忘れないために。

 そして、新しい自分になるための、道標だ。







「先生」

「何かな」

「ひとつ、聞いてもいいかい?」

 神乃木はミルクのカップを抱え、舐めるようにミルクを飲んだ。



「どうしてオレはミルクで、アンタはコーヒーなんだ」


「そうだね…………君が大人になったら、コーヒーを出してあげよう」


「大人………………か」

「私から見れば、君はまだコネコだよ。神乃木君」


 御剣はそう言って、くすっと笑った。





(早く大人にならなきゃな)




 神乃木は素直に甘いミルクを舐めながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。
















<END>







はい、何をとち狂ったか、信神です。シンカミ! 何て斬新な響き!
……ええと、まずは7月9日のビタミルカフェチャットに参加してくださった方、ありがとうございましたv なんか3人くらいでこっそりと井戸端会議みたいになるかと思ってたんですが、こんな辺境サイトの癖にけっこうな人数が出たり入ったりしてくださいましたv そこでゴドナル→ゴド受け→信神という話の流れになり、ネタを頂戴しまして……。みなさん勝手に使っちゃってスミマセンです(汗)。SSにこれでもかというほど、チャットでのネタがちりばめられています。分かる人だけ「そうそうこんなこと話してたんだっけ」と思ってください。
御剣信が神乃木の目標だったという設定、いいですよねぇvvv すごく気に入ってしまいましたv
神乃木さんの若い頃なんて想像したこともなかった……奥が深い。  By明日狩り  2004/7/10