まるで他人事のように、自分の運命が決まる。
 まるで他人事のように、自分の未来が決まる。

 主役であるはずのゴドー・神乃木荘龍は、ただぼんやりと踊る法廷を眺めていた。

「異議あり!」
「異議あり!」

 威勢のいい声が、舞台の合いの手のようにかかる。
 もちろん、全力で弁護してくれている成歩堂にも、神乃木の罪をきっちり清算しようと努める
御剣検事にも、言葉にならない感謝をずっと感じ続けている。
 ゴドーという仮面を被ったくだらない男のために、こんなにも熱くなってくれる2人には、男として、人として、感謝しないではいられない。

 けれど、神乃木は空虚だった。

「それでは、神乃木荘龍に判決を言い渡します」

 空っぽな男の、未来が決まる。
 裁判長の木槌が振り下ろされる。

 それですべては終わりになった。























古い映画の話 <curtain call>


 




















 もう外は日が暮れていた。

 何度かの休憩を挟み、午後にまで持ち越された審理は、なかなか終わる気配を見せなかった。それでも最後には成歩堂の優勢が誰の目にも明らかになり、神乃木には執行猶予が付くことになって閉廷となった。

 傍聴席で裁判の様子を見ていた真宵や春美が、審理の後すぐにお祝いを言いに来てくれた。
「ゴド……神乃木さん! おめでとうございます!」
「なるほどくんも、こういうときはけっこう頼りになるものなのですね! ワタクシ、最後のほうはもうすっかり興奮してしまいました!」
「こういうときは……って、春美ちゃんもけっこうキツいなぁ……」
 成歩堂も一緒に来て、照れくさそうに頭をかいている。

 こんなにも、支えてくれる人間がいる。
 神乃木はフッと笑って、短く「ありがとよ」とだけ言った。

 その寂しそうな顔に、何かを悟ったのだろう。真宵も、成歩堂も、少し困ったような顔をしてお互いを見合っている。はしゃいでいた春美も雰囲気を察して、すぐに口をつぐんだ。

 すぐに、成歩堂が口を開く。
「神乃木さん、疲れたでしょう。第3控え室が空いてるそうですから、少し休んでください」
「ああ…………そうさせてもらうぜ」

 成歩堂の気遣いが、ありがたすぎるほどありがたかった。

 本当なら、自分のために戦ってくれた成歩堂にも、その裁判を応援していてくれたお嬢ちゃんたちにも、もっと言葉を重ねるべきなのだろう。
 けれど、今の神乃木にはその気力がない。

 すべてを失い、すべてを終わらせた今の神乃木には、もう、何ひとつ残されていなかった。



 白々とした廊下を歩いて、神乃木は控え室へと向かった。

(本当に…………これで終わりだ…………)

 殺人の罪を暴かれ、その償いが決められた。神乃木に言わせればそれは甘すぎる判決だったが、裁判長の決定は絶対だ。下された決断にいまさら反抗する気もない。

 失った5年間という歳月。
 失った視力。
 失った敵。
 失った後輩……守るべき人。

 失ったものを取り戻すためではない。

 ただ、終わらせるために、足掻き続けて。

 その清算が、ようやく終わった。


「……クッ」

 長かったのか、短かったのか分からない。
 ただ、何もかもが終わった。

 ただでさえボロボロだった体が、そろそろ限界だと悲鳴を上げる。極寒の吾童山での夜明かしに続く最終法廷バトル、さらに自分の裁判と、ハードなスケジュールに神乃木の体は疲労しきっていた。
 足を引きずるようにして、控え室へと向かう。カッコつかねえぜ、と粋がる気力さえなくしていた。


 冷たいドアノブに手を掛け、重い木製の扉を体重をかけて押し開ける。

 中は照明が消えていた。窓の向こうから街頭の明かりが漏れているのか、ほんのりと薄明るい。静かに降り注ぐ雪に光が反射して、暗い戸外をキラキラと舞い降りていく。

「…………………………」
 明かりをつけようと壁伝いに手を伸ばして、不意に神乃木は動きを止めた。

「…………………………?」

 薄暗い室内に、誰かがいる。
 顔を上げると、窓際に誰かが立っているのが分かった。

「誰だ」

 手探りで照明のスイッチを探していると、影がスッと動いた。
 続いて、静かな音楽が流れ出す。

「…………?」

 暗闇に目を凝らして、神乃木はその調べに手を止めた。

 闇の中から奏でられるその曲に、聞き覚えがある。
 ヴァイオリンとピアノの協奏曲は、軽やかに3拍子を刻みながら何かを誘うようにスローテンポで流れている。

(これは………………何だ…………)

 記憶のどこかにひっかかる響きが、神乃木の心をかき乱す。
 懐かしいような、新しいような、ひどく心を揺さぶる曲。

(何だったっけか…………思い出せねぇ…………)
 神乃木はクッとうめいて、顔を上げた。

 闇に浮かぶ人影が視界に入る。


「………………アンタは」

 そこには、懐かしい人影が立っていた。
 長い黒髪を肩になびかせ、グラマーな体を薄い服に包んで、余裕の笑みを口元に浮かべているその姿を、忘れたことは1度もない。

「………………………………」
 名前を呼びそうになって、神乃木は自嘲した。
 その人はもう、この世の者ではなくなっている。たとえ目の前にその姿を現そうとも、それはもうあの人ではないのだ。

「やめときな、お嬢ちゃん。そういうのはダメなんだ」
 ダメなんだ、ともう1度口の中でつぶやいて、神乃木はうつむいた。

 目の前にいるのは、真宵だ。
 千尋の魂を憑依させていても、真宵の意識がなくとも、それは千尋ではない。真宵なのだ。

「死んだ人間には会えねぇ。そいつは……オレのルールじゃねえ。この世の真理だ」

 綾里の霊媒が本物だということくらいは知っている。
 けれど、死んだ人間は所詮、死んでいる。死んだ人間の死んだ言葉を聞かされたところで、いまさらどうするというのだろう。
(どうすることも、できねぇんだ)


 神乃木はフッと笑って、真宵を見た。

「アンタの気遣いは嬉しいが、オレは死者と語らう気はねぇ。だから……」

 ……もう、こんなことは止めな。
 そう言いかけて、神乃木は口をつぐんだ。

 真宵が、笑っている。
 いや、笑っているその人は、千尋なのだろう。真宵の体で、千尋が微笑んでいた。

 にっこりと、余裕の笑みで。

「チヒ…………………………」
 思わず名前を呼びそうになった神乃木に、千尋が近づいて人差し指を立てる。
 唇をすぼめて、人差し指を当てた。

(静かに)

 まるで子供に言い聞かせるように。
 まるで子供同士の秘密の約束のように。

 千尋は小さくウインクして見せる。
 そして呆然と立ち尽くす神乃木の手を取り、軽く引いた。

「……………………っと」

 ふわりと体を引き寄せられて、神乃木は足を軽く前へ出す。
 それにあわせて、千尋は1歩後ろへ引く。

 後ろへ引いたと思ったら、今度は右へ。
 くるり、と回って。

 手を取り合ったまま、顔を見つめて、千尋はくすぐったそうに笑った。

「…………………………」

 千尋に振り回されながら、神乃木は力の入らない体でふらふらと千尋を追う。
 手を引かれ、足を前に出せば、今度は後ろへと追いやられ。

 ふと耳に入る、3拍子の協奏曲。


(………………ワルツ……?)


 そこで神乃木はようやく、自分がワルツを踊らされていることに気付いた。

 千尋のリードを読んでどうにか足を踏み出すと、千尋は「まあ」とでも言うように目を見開き、それから目を細めてにっこりと微笑んだ。
 ゆっくりと回り、手を取って体を寄せる。

 それでももう、ステップは崩れなかった。

 神乃木は千尋の腰を片手に抱き、手を取り合って、不慣れなワルツに挑む。
 ダンスなど踊ったこともなかったが、千尋について歩けば自然と格好が付く。どうやら千尋の方は少々心得があるらしい。

 ぎこちない動きで暗い部屋の中を移動しながら、神乃木はずっと流れ続けている曲に耳を傾けた。

(……………………この……曲……)

 どこかで聞いたことがある。
 記憶の糸をたどり続け、耳の奥に残る旋律に意識を集中して。

 前にステップを踏み出したとき、フッと思い出した。

(あれだ………………映画の……)




 それは、古い映画の曲だった。

 廃盤になってしまったとかで、あちこちを探し回った挙句、半年ほど前ようやく手に入れて見ることができた。ロミオとジュリエットをモチーフにした古典映画のリメイクで、千尋と見に行く約束をしていたのだ。
 ……結局、2人で見る機会は永遠に失われてしまったのだが。

 千尋はその映画を観たらしい、と聞いた。成歩堂の事務所にこの映画のポスターが貼ってあるのが、その証拠だった。

『映画でも、見に行かねえか?』
 あの時、そのひと言を言うのにどれだけためらったことか。
 いい年した男が、女を映画に誘うだけであんなに躊躇するなんて、思い出すだけでも恥ずかしくなる。
 けれどどうにかさり気なさを装って、切り出すことができた。千尋も、まんざらではないようだった。それが嬉しくて、まるで少年のように心がはしゃいだ。

 …………それも、もう遠い昔の話になってしまった。
 神乃木はその古いビデオを見ながら部屋で独り、コーヒーを飲んだことを思い出す。それがつい半年前のことだ。独りきりで飲み干すコーヒーはひどく苦いブレンドだった。




 その映画のラストシーンは、こんな風だったような気がする。
 死んだヒロイン、残された主人公。
 すべてが終わった後、ラストシーンは思い出の舞踏会で締めくくられる。運命に翻弄された2人が初めて踊った舞踏会の様子が、エンドクレジットに重ねられていつまでも続く演出だった。

 禁じられた関係の2人は人目を避けて、暗い部屋の片隅で手を取り合う。
 笑顔でワルツを踊る2人。悲しみも運命も何も知らないように、幸せそうに微笑み会う恋人たち。
 くるくると回る2人の後ろには、まるで永遠に終わらないような単純なリズムが、繰り返し繰り返し流れていた。




(アンタも、見たんだよな…………あれを)

 胸の中の千尋を見下ろすと、「そうなんです」とでも言うようにニコッと笑う。
 あの映画のヒロインと同じように、幸せそうな表情で。

 それにつられて、神乃木もフッと笑った。

 千尋の手を引き、軽い動きで流れを引き込む。何も言わず、千尋はすんなりと神乃木のステップについてきた。
 ダンスなんて分からない。ただ、2人でいればそれで良かった。

 緩やかに動き、手を取って、音楽を楽しむ。
 くるりと体をひるがえせば、千尋が笑う。
 軽く腰を引き寄せて、すんなりと腕に抱きしめる。


 抱きしめたまま、小さくステップを踏んだ。


(この足を止めちまったら…………戻れなくなる)

 今すぐにでも抱きしめ、名前を呼びたい衝動に駆られる。
 けれど、それはいけないことだ。

 ……神乃木はそう、知っていた。

 今の神乃木に許されているのは、ただ映画のラストシーンのように、ヒロインと踊り続けることだけだった。


(でも…………それで充分だ)

 腕の中の懐かしいコネコちゃんの面影に、微笑みかける。

 手の中にあるこの体温が。
 存在が。
 魂が。

 神乃木の中へ還っていく。
 忘れていはいけないはずのものを、けれど忘れかけていたそれを。
 今もう一度、神乃木は手の中に確かめる。




 チヒロという、愛しい存在があったことを。
 この世で2人、時を過ごしたことを。

 同じ映画を、見たことを。

 時は違えども、時は過ぎるとも、確かに2人は一緒だったのだと。




 チヒロは神乃木を見上げて、幸せそうに微笑んだ。



(ああ、アンタは………………幸せだったんだな)




 神乃木は、ゴーグルを外した。
 それがなければほとんど見ることもできない体だったが、無骨なオモチャは映画のラストシーンには相応しくない。

 見えない目を凝らして、大切なものを肉眼に焼き付ける。
 ぼんやりとした輪郭に、愛しい形がにじむ。


 その形は、記憶の中のチヒロと同じだった。
















 それきり、神乃木は糸が切れたように崩れ落ちた。
 体力の限界を超えて、気を失ったのだ。

 倒れる神乃木の体を受け止めて、千尋は悲しそうに顔をゆがめた。神乃木の体があまりにも軽くて、胸が痛む。
 白い髪の痩せた男をソファに横たえて、千尋はスッと「存在」を消した。


 薄暗い部屋には、静かなワルツの曲だけが流れている。

 誰も動く者のない部屋で、ただ窓の外の粉雪だけがいつまでもいつまでも、踊り続けていた。

















 すべてが終わるとき、泣いてもいいと自分に言い聞かせた。
 けれど、泣いても「終わり」は終わらない。

 「終わり」はいつでも、「始まり」に続く。

 懐かしい日々を、思い出に替えて。
 空っぽの心に、満たして。


 カワイイ後輩の……恋人の笑顔をその目に焼き付けて。

 神乃木荘龍の新たな時間が今、始まるのだった。








<END>










このサイトを立ち上げたときに書いて以来、ずっとお気に入りだった「古い映画の話」ですが、ここにきて突然3つ目のおはなしが思い浮かびました。このシリーズは自分でもすごく気に入っていて、私の中のカミチヒの愛しさも痛みも、全部ちゃんと表現できてるような気がしています。そして、3つ目ができるとは思っていませんでした。
このSSにもイメージソングがあります。最近カラオケでSS思いつくことが多いです。鬼束ちひろの「私とワルツを」を先日カラオケで歌ったときに、あふれて止まらなくなりました。今まで何度もこの歌をカラオケで歌っているのに、いまさらのように千尋さんが手を差し伸べて微笑みかけてきたんです。「ああ、こんなところにいたんだ」って思いました。

別れには、儀式が必要だと思っています。お葬式は、生きている人が死者と別れるために必要な儀式で、死者を慰めたり成仏させたりするためのものじゃないと思う。けれど神乃木さんは、チヒロにまだお別れを言っていなかった。だから、ちゃんと「さようなら」をして、その人のことを思い出にして、生きている人は生きている時間を続けなきゃならない。神乃木さんのためのその儀式を、ずっと考えていました。チヒロと別れるための儀式。挨拶でもいい。なにかしらけじめがないと、ダメなんです。

でも、「さようなら、神乃木さん」と言うことはカミチヒの別れには相応しくないと思っています。チヒロは死んでいるから、生きた言葉は発するべきじゃない。死者はたとえその面影を甦らせることはあっても、決して新しい言葉を発してはいけないのです。霊媒という設定以上に、それこそが最も条理に反する行為だと思うのです。生前のチヒロは神乃木との別れなんて考えていなかった。だからセンパイに「さようなら」なんて言わない。

そんな2人を、ちゃんとお別れさせるために。神乃木さんに新しい人生を始めてもらうために。古い映画の話をもう一度持ち出してきました。言葉はなく、チヒロのメッセージはなく、それでも神乃木さんがちゃんとチヒロのことを思い出にできるように、してあげました。最初に書いた2話へ付け足したものなので、やっぱり取ってつけたような感は否めませんけど、でもシリーズとしては悪くないんじゃないかな、と思っています。やっぱり、カミチヒ好きです。
 By明日狩り  2004/10/7






※このサイトのSSは、「成歩堂日記」と「小説全般」と「裏ページ」では別々の世界観・設定と考えてください。SSはおおよそ同じ設定で書いていますが、たまに違っていることがあります。
ひとつずつ別のものだと思って読んでくださると……助かります。