| 古い映画の話 <side B> |
その日、星影法律事務所には、所長の星影と新人の綾里しかいなかった。 クーラーのよく利いた部屋は真夏でもひんやりとして、二人きりの事務所は妙に閑散としていた。 賑やかな蝉の声も、熱を反射して走り去る自動車の騒音も、この部屋にいると遠い世界のことのように聞こえる。窓の外の風景はアスファルトの反射熱で揺らぎ、まるで陽炎のようだった。 事務所に満ちた静寂を壊さないように、二人の弁護士は黙々と手元の書類を片付けている。 「机を……片付けましょうか、先生」 その静寂を破って、綾里千尋が声を発した。身構えていたせいか、それとも予期せぬことに驚いたのか、星影は丸い体をびくんと震わせた。 「……う、うむ。しかし……」 何と答えていいか言葉に詰まる。返事を待たずに、千尋は席を立って向かい側に置かれたデスクの前に立った。 「しかし、チヒロ君……」 「だって、仕方ないじゃないですか」 千尋は困ったように笑い、遠慮なくそのデスクの引き出しを開けた。 「やだ、先輩ったら。ぜんぜん仕事する気がないみたい」 引き出しの中はおもちゃ箱のようにごちゃごちゃと小物が放り込まれていた。缶コーヒーが2本、ジュースのおまけについてきたらしいボトルキャップ、ポストイット、ネクタイピン、何枚かのプライベートな写真、ダイレクトメール、小銭……。真空パックされたドリップ式のインスタントコーヒーもあった。 「給湯室に勝手にコーヒーメーカー入れてるくせに、私物にまでコーヒー。まだ飲み足りないんですかね」 独り言を言いながら、千尋は引き出しの中の物を次々とデスクの上に積み上げていく。必要なものとそうでないものに分け、要らないほうを書類用の大きな茶封筒に詰め始めた。 「それをどうするのかね」 デスクの私物を無造作に処分していく千尋のいっそ潔い態度に、星影はいささか焦りを感じた。こんなとき所長として、人生の先輩として、何かかけるべき言葉があるはずなのだが、それがうまく出てこなかった。 「ああ、どうやら彼の私物はまとめて保管してもらえるそうなので、そちらに回しておくつもりです」 「そ、そうか……」 さすがに捨ててしまうわけではないらしい。星影はほっと肩の力を抜いた。 「そうぢゃな、まだ彼も……」 『まだ彼も死んだわけではないのだから』という言葉の続きをあわてて飲み込む。 (むぅ……わしとしたことがロクなことが言えんわい……) 死んだも同然なのだ。 医師の説明は星影と千尋の二人で聞いた。 『回復の見込みはなし。何かのきっかけで目覚めるのを待つしかない』と、医師はそう言った。植物状態になってしまった人間の多くがそうであるように、彼もまた、いつ目覚めるとも知れない眠りに陥ってしまった。 ただ呼吸し、体温を失わないだけの肉。 それが、今の神乃木荘龍だった。 「もう、しょうがないんだから。先輩は」 千尋は文句を言いながら神乃木のデスクを片付ける。まるで、明日にでも帰ってくる人を待っているかのようだ。いつもと変わらない千尋の態度を見ていて、星影は胸が締め付けられるようだった。 「それぢゃ、そっちは任せるとするか」 「はい、慣れてますから」 「そうぢゃったな」 やることがスマートなわりに意外と片付け下手だった神乃木に、あれこれと世話を焼いていたのが千尋だった。 『相変わらず小さなことにうるさいコネコちゃんだぜ』 そう言って、今にも神乃木が姿を現しそうだった。 (そんなわけは、ないのぢゃがな……) 星影の小さなため息は、千尋に気づかれることなくそっと消えた。 星影が仕事を終えて先に帰り、千尋は一人で事務所に残っていた。 「これでおしまい、と」 からっぽになった神乃木のデスクの前で、千尋は誰に言うともなくつぶやいた。 「綺麗になったわー。ちゃんと片付けてくれないんだから。先輩ったら」 一人きりの事務所に声が響く。自分に何かを強く言い聞かせるように、千尋はわざと大きな声を出した。 「あー、綺麗になった」 震えそうになる声を無理に押しとどめ、大きく息を吐いて天井を見上げる。頭を使えば自分が壊れてしまいそうだった。 「さて……帰ろうかな……」 うつむき加減で力なく肩を落とし、千尋はコートを入れてあるロッカーを開けた。 「…………………………っ」 そして、再び思い出してしまうのだった。 そこに掛けられている、神乃木のベストを見て。 「………………う……」 鼻の奥の痛みを、唇を噛んで堪える。 主を待ってハンガーにぶら下がっているベストは、手に取るとふんわり苦い香りがした。 一人で震える千尋の肩を、優しく抱く手はもうここにはない。 こぼれそうになる涙を振り切って、千尋は顔を上げた。 (泣いちゃだめ……我慢しなきゃ……だめ……) 泣けば神乃木に叱られそうな気がした。まだやることは残っている。神乃木の意識を奪ったあの少女の謎を、追わなければならないのだ。 『……泣くのは、すべてが終わったときだぜ』 神乃木の言葉が今でも、千尋の胸に穿たれている。 「そうですよね、先輩」 千尋は手にしたベストをぎゅっと握り、ふと、首をかしげた。 「……あれ?」 何か妙な手応えがある。手触りの良いベストの中に、ごわごわとした感触があった。 探ってみると、裏ポケットに色気のない茶封筒が刺さっている。 (何だろう……大切なものだったらちゃんとしてあげないと……) 手紙だったら見ないでおこう、と思いながら中の紙片を取り出す。 光沢のある紙が2枚。 それは映画のチケットだった。 「あ………………」 それはつい先週のことだった。 神乃木から突然「映画でも見にいかねぇか」と言われて、自分でも恥ずかしくなるほどあたふたしてしまった。そんな風に誘われることなど、今まで一度もなかったことだった。 仕事の後に食事に行ったことは何度もあったが、予定を立てて二人でどこかへ行くことなど初めてのことで、嬉しいような困ったような気持ちはこの一週間ずっと続いていた。 何事もなければ、このチケットは今夜使われるはずだった。 「あーあ……もう……どうしよう……」 心が震えて止まらない。 誰かがそばにいたら、きっと弱音を吐いて泣いていただろう。 けれど今の千尋には、誰も支える人がいない。だからこそ千尋はきゅっと唇を結んで涙を堪えることができた。 (泣くのは、すべてが終わってから) その言葉だけが、今の千尋に寄り添っている。 「じゃ、約束ですから。行きましょうか神乃木先輩」 千尋はスーツの上にベストを羽織り、そこにはいない人に語りかけた。胸が大きく開いた女物のスーツにそのベストはひどく不釣合いだったが、千尋はそんなことは気にしない。 きっぱりと顔を上げて、颯爽と事務所を後にする。 何かを振り切ろうとするように。 小さな映画館はカップルでいっぱいで、クーラーも利かないほどだった。 ましてスーツの上にベストを重ねている千尋は暑さに顔を赤くしながら、カップルに挟まれてたった一人で映画を見た。 その映画はロミオとジュリエットをベースにしたとある古典映画のリメイクで、恋人を失ったヒロインの独白から物語が始まる。 死んでしまった恋人に一目だけでも会いたい。そんなヒロインの気持ちがスクリーンに満たされていた。やがて不幸な事件に巻き込まれ、ヒロインは死んでしまう。けれど死んだはずの彼女の恋人は生きていた……。 「……俺は……何のためにここに戻ってきたんだ……」 ヒロインの棺を前にして、男が声を絞り出す。悲痛な思いが観客の心にあふれ、あちこちからすすり泣きの声が聞こえた。 『泣くのは、すべてが終わってからだぜ』 千尋にささやく声がする。けれど千尋は小さく頭を横に振った。 (せんぱい……。今は映画が素敵だから、泣いてるんです。それなら、いいでしょう? ねぇ、せんぱい……?) 『ずるいコネコちゃんだぜ』 神乃木の苦笑する様子が目に浮かぶ。千尋は泣き笑いの顔を手でぐしゃぐしゃと拭いた。 映画を見よう。 あの人との、最後の思い出を作りに。 あの人のことを思い出すとき、一緒に映画を見たよねって。 ちょっとだけ恋人らしいこともあったみたいに。 映画を見に行こう。 <END> |
| あー死にカプは痛いよーいやだよーでもついついつい死にカプ書いちゃうんだよー。 というわけでカミチヒはいいということで。神乃木さんのデスクは散らかってるということで。そんな感じしません? 部屋とか結構散らかってるんだよ。不潔じゃないけど、乱雑なの。 By明日狩り 2004/2/20 |