古い映画の話 <side A>




 神乃木に残されたのは、目の前の荷物だけだった。
「やれやれ……」
 小さな個人用の貸し倉庫の中には、段ボール箱が10箱ほどと、埃よけのビニールを被せられた家財道具が一式、無造作に放り込まれていた。手近な段ボール箱を開けてみると、汚れた洗濯物がそのまま詰め込まれている。5年分の汚れがしみこんだ洋服など、洗っても二度と着る気にはなれないだろう。
「気がきかねぇな。せめてクリーニングでも出しておいてくれ……」
 軽口を叩いてみるが、狭い貸し倉庫に虚しく響くばかりだ。


 5年間の空白があった。
 けれどその間のことなど、神乃木は何も覚えていない。
 記憶の最後、そこで見たのは、得体の知れない少女の軽やかな後姿だったように思う。

「ちょっと……お待ちになっていてくださいましね」
 妖精のような薄物を身にまとったその少女は、そう言って風のように微笑むと席を外した。残された神乃木は、その後姿を見ながらカップに残ったコーヒーを飲み干す。冷えかけたコーヒーは香りもなく、少し酸っぱかった。

(地方裁判所のカフェテリアじゃ……うまいコーヒーは望めねぇ、か)
 ぼんやりそんなことを考えていた。彼女が戻ってきたらどんな風に質問の続きを始めようか……そんなことを思っていると、

 突然、世界がぐらりと歪んだ。

「………………っ!?」
 強烈な吐き気とともに、体が硬直して動かなくなる。スローモーションのように自分の体が椅子から転げ落ちていくのが分かった。
 誰かが悲鳴を上げた。その声がまるで、遠いサイレンのように聞こえる。

 まるで映画のワンシーンを見ているようだった。
 目の前が真っ赤に染まり、はいつくばった床の無機質なタイルだけが目に映る。悲鳴と耳鳴りとが頭の芯まで響いて、意識はその激しい振動に揺さぶられて壊れていく。
 自分が崩れていく音が聞こえた。
 血のような赤だけが見えていた。

 それきり、次に白い病室で目覚めるまでの記憶は、まったくない。








「神乃木様、ですね」
 意識を取り戻した神乃木の病室に、すぐにその男は現れた。
「美柳様の使いの者です」
 男は神乃木の回復に形式的な祝辞を述べ、一本の鍵を取り出した。

「神乃木様の荷物はすべてここに預けてあります。マンションのほうは神乃木様の昏倒から半年後に、親族の方が処分されたようです」
「…………あんた、いったい……?」
「これは旦那様の好意ですので、何か不満や不足がありましても、我々では責任を負えませんので、ご了承いただきたい」
「…………………………」
「では、私はこれにて」
 ろくに説明もしないまま、長居は無用とばかりに男はさっさと姿を消してしまった。

 後には、一本の鍵だけが残された。
 看護婦などから事情を聞くと、どうやら5年に渡って神乃木の治療費と私物管理を引き受けていたのが、美柳ちなみの父親だったらしい。事を穏便に済ませるために金を出した、というわけだ。
 ちなみは、殺害容疑は免れたらしい。それでもちなみに対する疑いの目は消せず、被害者への同情を示すことで世間の悪評を抑えた。



 たった一本の鍵を握り締めて、神乃木は病院を後にした。
 体は5年の間に筋肉が落ち、やせて力を失った。神経系が毒にやられ、感覚という感覚がおぼつかない。特殊なゴーグルを通してでなければ、ろくに物を見ることさえできないような状態だった。住んでいた場所はなくなり、自分という存在さえ半ば忘れ去られている。
 それだけではない。
 神乃木はこの空白の5年の間に、何よりも大切な、たった一つのものをも失くしていた。


 ちなみの父によって保管されていた私物に囲まれて、神乃木はぼんやりと缶コーヒーを握っていた。甘ったるいコーヒーの味さえよく分からないのは、神経が毒のせいでずたずたになっているかららしい。
 薄ぼんやりとした記憶を頼りに、埃よけのビニールを乱暴に引き剥がす。ダッシュボードの引き出しを開けると、そこには思ったとおりのものがあの頃と同じようにちゃんと収まっていた。

 写真立てに収まった、得意げに笑う美人の顔。

「チヒロ……」

 同じ弁護士事務所にいた彼女は、神乃木の大切な人だった。法廷記録を前に悪戦苦闘する様子がまるでコネコのようで、「コネコちゃん」と呼んでよくからかった。
 先輩と後輩、弁護士と見習い、そして男と女として、二人は短いながらも同じ時間を過ごしてきた。
 あの笑顔さえ、もう今の神乃木には残されてはいない。

「……………………」
 千尋のいない世界に、いまさら戻ってきたところで何の意味があるのだろう。千尋を失い、自分の存在を失い、自分の肉体さえ危ういこの現実に、いったい何の価値があるのだろう。

 ダッシュボードに体を預け、神乃木は床に座り込んだ。味のしないコーヒーを胃に流し込んで、ぼんやりと宙を仰ぐ。
 世界が、希薄だった。
 薄らいだ感覚器官のせいか、すべてに対して実感というものが湧かない。自分が生きていることさえ疑わしくなってくる。いや、息をしているというだけで、本当に生きていると言えるのかどうか……。

 空白の時間は続いていた。
 目覚めたはずの神乃木の時間は、まだ止まったままだった。








 どれくらいそうしていただろう。










 開け放したままだった倉庫の扉が風にあおられ、大きな音を立てて閉まった。その振動で、立てかけてあったガラス製の傘立が転倒する。
「…………っと、いけねえ」
 立ち上がろうとダッシュボードに手をかけると、中途半端に開きかけていた引き出しがあっさり落ちた。
「うわっ」
 バランスを崩して、引き出しとともに床にひっくり返る。しまい込まれていた雑多な小物がばらばらと散らばった。
 ボールペン、カード、小銭、その他もろもろが派手に転がっていく。
「クッ…………」

 拾う気力もなくなる。
 散らかった床の上に再びぼんやりと座り込み、神乃木は小さく息を吐いた。

 ふと。

 引き出しの中にひとつだけ残った「それ」に目が留まる。


「……………………あ……」


 それは茶封筒だった。中身は見なくても覚えている。
 手に取り、開いてみると、中にはチケットが2枚入っていた。
「………………クッ、まだありやがったのか……」
 リバイバルした古い映画のチケットだった。たまたま手に入れて、いつもからかってばかりいたコネコちゃんを誘ってみた。
 そのときの千尋の顔は今でも忘れない。
「まるで俺を押し売りかなにかみてぇな目で見やがって……」
 神乃木の口元に苦笑が浮かぶ。

『そ、それ、まさか神乃木先輩が……私を……映画に誘おうということですか?』
 目を見開いて驚く千尋に、そこまで驚かなくてもいいだろうと神乃木は肩をすくめた。
『映画のチケットが2枚、それ以外に何があるってんだ?』
『え……と、私に売りつけるとか。実は映画じゃなくて怪しい何かの勧誘とか……』
『素直に「誘ってくださってありがとうございます」と言えよ、コネコちゃん』
 何だかんだ言いながら誘われたのが嬉しかったのだろう。千尋は映画のことをずいぶん楽しみにしていたようだった。

 ……結局見に行くことはできなくなってしまったのだが。

「クソ……本当にいまさら、だぜ?」

 行けなかった映画。
 果たせなかった約束。
 千尋は忘れてしまっただろうか。

 やるせない思いで、封筒をさかさまにする。
 あの日と同じ、古い映画のチケットが2枚、滑り出た。



「……………………これは……?」






 記憶とは違う、あの日のチケット。








 





 確かにそれは、あの映画のチケットだった。
 けれど、使わずに終わってしまったはずのそれは、一枚だけが半券を切られている。

「……………………誰かが、見たのか……」

 このチケットで、誰かが映画を見に行った。
 そして、映画館で返された半券を大事に封筒に戻しておいた。

 神乃木が映画のチケットを持っていたことを知っていたのは。
 それができたのは、


 ただ一人。






「…………チヒロ……」

 乾いた胸の奥に、熱く潤んだ感情がこみ上げる。

 一人で映画を見に行く千尋。
 鮮やかに目に浮かぶその姿に、神乃木は思わず手を差し伸べていた。


 もちろん届くはずもなく、手は狭い倉庫の宙を掻いただけだけれど。



 神乃木の胸の中に、確かに戻ってきた「何か」があった。













































「おい、まるほどう。

 その、弁護士事務所に不似合いな映画のポスター……知ってるか?



 そうか、千尋が好きだった、と…………そう言ってたのか……。




 ああ、知ってるさ。

 5年位前にリバイバルして、映画館でもやってた奴だ。

 俺もたまたま、レンタルして見たことがあるんだが。


 嫌いじゃないぜ。悪くはなかった、な」










<END>












「逆裁は明るいのが書きたいな〜」とか言ってたくせに、痛い神乃木SSばかり思い浮かんでしょうがないですわ。「痛み」を書きたい衝動が何よりも強い自分がいるので、もはや運命か。逆裁の中でも一二を争うゴドーさんの痛み、まだ書いてみたいですね。
しかし久しぶりにまともに文章かいてるので、言葉が出てきませんよー……トホホ。  By明日狩り    2004/2/18
イラストは忍城さんのJUNK2004/2/26より。わーいわーいvv 小説に絵を描いてもらえるのは本当に嬉しいです。思わず絵にしてみたくなるほどの小説を書いていたいですよね。
さらにお友達の君島ギィさんにもイメージイラストを描いてもらいました!こちら→