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「……嘘つき」
「嘘じゃねーもん!」
「嘘だろ」
「嘘じゃねーっての!」
ホルマジオとイルーゾォはさっきからそればかりを繰り返している。
「嘘つき」と冷めた声で非難するのはホルマジオ。
「嘘じゃない!」とキレ気味に否定するのがイルーゾォだ。
「だったら、証拠は?」
ホルマジオの静かな声に、イルーゾォはぐっと言葉を飲み込んだ。いつも朗らかで明るいホルマジオがこんな口調になるだけで、威圧感と恐怖に負けそうになる。
とはいえ、イルーゾォだって引くわけにはいかない。
「しょ、証拠なんかねーよ」
「嘘だからだろ」
「違う! なんで信じてくれねーんだよ!」
「だってオメーに彼女がいたなんて聞いてねえもん」
静かな怒りを秘めた声でそういうと、ホルマジオはソファの背に腕をかけて顔を背けた。その前につっ立っているイルーゾォは、まるで審判を受ける罪人のようだ。
「だから彼女じゃねーってば! 付き合ってなかったし!」
「でもキスしてたじゃねーか」
「それは……」
言葉につまるイルーゾォを見て、ホルマジオの心が熱く焼け付く。だが、痛手を負った気持ちを隠して、あくまでも冷静さを貫くつもりだ。
「昔付き合ってた彼女がいたって別にいいさ。そんなんオレだって何人もいたし、そんなこと気にするほど小せえ男じゃあねーよ」
「……うん」
「問題なのは、オレに嘘をついてそいつに会って、キスしてたところをオレに見られたってことだ」
「だからあれは違うんだって……」
「完全に浮気じゃねえか!」
思わず語気を荒らげて怒鳴ってしまい、チッと舌打ちしてまた顔を背ける。
(……クソッ、なんでこんなに余裕なくしてんだよオレは……しょーがねーなぁ……)
イルーゾォの浮気現場を目撃してしまい、自分でも驚くほど怒りが収まらない。もっと年上らしく、男らしく、「本当はオレが好きなんだよな? 信じてるぜ」とか何とか言って余裕の笑みを浮かべてやりたいのだが、どうしても恨みがましい言葉が止まらない。
イルーゾォは目に涙を浮かべて立ち尽くし、拳を固く握る。手のひらに突き刺さる固い爪の感触さえ感じないほど、心が凍りついていた。
(おれはバカだ。本当にバカだ。ホルマジオに怒られても仕方ない。でも、でも、違うんだよ……)
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イルーゾォがその連絡を受け取ったのは、今日の昼前のことだ。行きつけのバーのマスターからの言付けにこんなことが書いてあった。
『この街にあんたがいると聞いて、会いに来た旅行者の女がいるよ。今夜の便で発ってしばらくイタリアには来ないらしい。身元は保証しないが、念のため知らせておく』
そこに添えられていた名前は確かに古い古い友人のもので、もう何年も会っていないどころか、連絡先さえわからなくなっていた女性だった。昔、イルーゾォが義父に連れ回されてヨーロッパ中を旅していたときに知り合った女の子で、イルーゾォにとっては忘れられない人だ。
「いるんだ、あいつ。この街に」
この機会を逃せば、おそらく二度と会えないだろう。そう思ったらいてもたってもいられなくなった。
慌ててアジトを飛び出すと、ホルマジオに会った。
「お、イルーゾォ。今夜の食事の件だけどよォー」
「あっ……」
そうだ、今夜はホルマジオと食事をする約束をしていた。イルーゾォは思わず眉値を寄せる。
「あっ、そうだっけ」
「なに、忘れてたのかよ。しょーがねーなぁ」
忘れていたわけではない。むしろ今夜のことが楽しみで、ここ何日かはそのことばかり考えていたのだ。うっかり忘れていたのは今の瞬間だけなのだが、そんなことを言い訳している時間はない。早くしなければ彼女は行ってしまうかもしれない。
「あ、あの、ごめんっ! 急用ができてさ、ほんと、突然のことで」
「そうなのか? そりゃあ残念だな。せっかく予約取れてたのによ」
ホルマジオの表情が少し陰る。わざわざ予約を取ってくれていたらしい。そんな有名店だったとは知らなかったが、二度と会えないかもしれない友人のことを諦められなかった。
「ごめん! 今度おれが予約取るからさ。今夜は、ごめん!」
「おー、わかったわかった。けど何の用なんだ?」
「それは……」
そこでイルーゾォはくちごもった。女の子に会うため、と言うのがなんとなく憚られて、とっさに嘘が口をついて出る。
「仕事。頼んでおいた件が失敗したらしくて、ちょっと見に行かなくちゃならなくなって」
「そっか、そりゃあ災難だな。リーダーに怒られねーことを祈るぜー」
「ありがとうホルマジオ!じゃあ!」
とにかく慌てていたので、それだけ言うと後ろも見ずに走り出した。
バーに飛び込み、今まさに席を立とうとしていたその女性を見た瞬間、イルーゾォは我が目を疑った。
それは確かに、思い出にあるとおりの彼女だった。清楚で、上品で、映画の女優よりずっときれいに成長していた彼女を見て、イルーゾォは言葉を失う。
「久しぶりね。来てくれてありがとう」
「あ、ああ。ずいぶん……大きくなったね」
きれいになったね、とは言えなかった。話したいことはたくさんあったが、時間はほとんどない。ほんの少し昔話をして、連絡先を渡すと、彼女はスーツケースを携えてバーを出ていった。
「さよなら、大好きだった……」
「えっ?」
別れ際にそう囁いて、キスをされた。それはどんな意味なのか、それとも聞き間違いだったのかどうか。
バーの前で立ち尽くしてぼんやりと考えていたイルーゾォは、たまたま店の前を通りかかったホルマジオに一部始終を見られていたことなど知るよしもなかった。
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(嘘なんてつくんじゃなかった。何で素直に「古い女友達に最後のお別れがしたい」って言わなかったんだろう)
後悔してもしきれない。今の恋人であるホルマジオとの約束を反故にするのに、女を理由にするのが嫌だったのは本当だ。けれどもこんな風にホルマジオを怒らせることになるなんて。
「本当に、浮気じゃないんだよ」
「嘘つき」
「嘘じゃない……」
もう、何を言っても信じてもらえない。イルーゾォは絶望的な気持ちでうつむいた。
そんなイルーゾォを見ているホルマジオもまた、絶望的な気持ちを味わっている。
(何でこんなに怒ってんだろ、オレ。しょーもねえ……)
イルーゾォに彼女がいたことが、やけにショックだった。イルーゾォは自他ともに認める人見知りで、コミュニケーションが苦手で、友達も少ない。だから「オレがついててやらねーとイルーゾォはダメなんだ」と思っていた。いつの間にか、そういうイルーゾォを自分より下に見ていた、ということはないだろうか。
(オレしか頼る相手がいない、カワイソーな奴だって思ってたのか? そんな優越感が気持ち良いからって、こいつと付き合ってたのかよ?だとしたらオレは最低の人間だな……)
自嘲してみても、それを否定することができない。人付き合いの苦手なイルーゾォのために、楽しませたりそばにいてやったりしてきたつもりだった。けれどイルーゾォに彼女がいた、と思うだけで、ホルマジオとの約束より大切な付き合いが他にあると知っただけで、こんなに腹が立つ。それはホルマジオ自身のエゴを如実に証明していた。
沈黙に耐えかねて、イルーゾォがぽつりと呟いた。
「……ごめんなさい」
それは、嘘をついたことと、ホルマジオを怒らせたことに対する謝罪だった。けれどもホルマジオはそれを「浮気したこと」についての謝罪として受け取る。
(やっぱり浮気なんじゃねーか……!)
カッと頭に血が上った。
「イル」
束ねた黒髪をつかみ、乱暴に引き寄せる。
「ひっ」
「償う気があるのかよ?」
「あっ、あるよ。許してくれるならおれ、なんだってするよ……」
イルーゾォは目に涙を浮かべながら、震える声で答えた。間近でイルーゾォの唇を見ると、きれいな顔をした女とキスしている場面がフラッシュバックする。
嘘をついたイルーゾォへの怒りより、自分のエゴを目の当たりにした苛立ちの方が大きかった。けれどもその感情は、イルーゾォに向けられる。
「だったら、咥えろよ」
「え…………っ?」
言葉が脳に達しない。頭が真っ白になって、ぽかんと口を開けたまま動けなくなる。そんなイルーゾォの口に親指を押し込んで、ホルマジオは鋭い目つきで言った。
「オレの。女にキスしたこの口で、咥えろよ」
「そんな…………!」
まさかそんなことを言われるとは思わなかったイルーゾォは、青ざめた顔で言葉を失った。だがホルマジオは冷酷に唇の端を上げて見せる。
「いいだろ? オレたち、付き合ってんだし」
「で、でも……」
確かに、ホルマジオとイルーゾォは現在「恋人」だ。付き合う約束をして、お互いに一番大切な人だという気持ちがある。
けれども体を重ねたことは数えるほどしかなく、しかもそんなに濃厚な愛撫をしたことはない。恥ずかしくてホルマジオに全てを任せて目をつぶっていることだけが、今までのイルーゾォにできる精いっぱいの行為だった。
そういうことをすべて承知の上で、ホルマジオは言っている。
「咥えろよ」
「………………うん、いいよ」
「へえ。昔の女に会ったからムラムラしてたりして?」
意地悪な口調に、逆に心が奮い立つ。イルーゾォはきっとホルマジオを睨みつけた。
「違う。……でも、それでホルマジオの気が済むのなら、何でもやる」
「じゃあ、やってくれよ」
そう言ってホルマジオはソファにふんぞり返った。その前に歩み寄り、一瞬だけためらってから、イルーゾォはその前に跪いた。
「…………………………」
無言でズボンに手を掛け、ホルマジオの物を取り出す。いつものイルーゾォなら怖じ気づいて直視することも出来ないだろうが、淡々とした作業のつもりでやれば我慢できないこともない。
(…………こんなの、オレもホルマジオも救われない……)
そう思うと、涙が出て来た。大好きなホルマジオなのに、いつかは頑張ってこういうことだってしたいと思っていたのに、ホルマジオに気持ちよくなってもらうのは嬉しいことのはずなのに、今のイルーゾォは胸の痛みしか感じない。
手のひらの中に、愛しい人の大切な物をやんわりと包み込む。
温かい血が通う、柔らかい肉。
こんなときでなければ、きっとこれはとても素敵なことだろう。もしくは、もっと甘くて酸っぱくてフワフワした気持ちになれることだろう。それなのに、せっかくの初めての愛撫を、こんな気持ちでしなくてはいけない。
(髪、長くて良かったな……)
うつむき、長く伸ばした黒髪に隠れて涙を流す。泣いていることをホルマジオに知られたくなかった。
息を呑み、心の痛みを飲み込んで、イルーゾォは小さく口を開くと顔を近づけた。
「……………………イルッ!!」
「んっ!?」
急にホルマジオに抱きしめられて。
まるで天地がひっくり返ったのかと思った。
「ホルマジオ…………?」
うつむいていたはずなのに、イルーゾォはいつの間にか天井を見上げていた。
自分を抱きしめているホルマジオが、震えている。
「ごめん」
「え?」
「……オレ、サイテーだ」
「でも……」
「無理だ。オメーにこんなことさせるなんて、サイテーすぎる」
「……………………」
ああ、やっぱりいつものホルマジオだ、とイルーゾォは思った。結局、優しいのだ。怒っていても、良い奴なのだ。
イルーゾォは心の中で安堵した。
「イル、オレな。お前がカワイソーな奴だから優越感に浸っていい気になってたんだ。でもお前に彼女がいたとか、お前でもキスできるんだとか、そういうのが我慢ならなくて」
「ホルマジオ…………」
抱きしめられているので、顔は見えない。ホルマジオの声は本気だった。
(ああ、これ、きっと嘘だよ。ホルマジオはそんな奴じゃないもの)
とっさにそう思った。けれどもホルマジオは一方的に告白を続ける。
「裏切られた気がしたんだ。お前にはオレだけじゃないんだって知ったから。だけど、結局、オレが一番ムカついてるのはそういう自分の汚い気持ちだ」
(それもきっと、嘘だ。ホルマジオは必要以上に自分を悪く評価してるよ……)
「自分が嫌な奴だって思うのが一番嫌だった。だけどよ、だからってオメーに当たってもしょーがねーよなあ?」
(ああ、ホルマジオ。ホルマジオの考えてることは、合ってるよ。オレにはホルマジオしかいないし、オレは可哀想な奴だし、だから優越感を持っててくれても全然かまわないのに)
「こんなことしてオメーに軽蔑されるのが怖い」
(軽蔑なんか、しないよ。ホルマジオを傷つけたのは、おれだもの)
「オメーを傷つけたことより、自分が見放される事の方が怖いんだ。そう思うとまた、オレって最低の奴だってことが分かって、腹が立って…………」
(そんなに自分を責めなくていいよ)
イルーゾォの心に、言葉があふれる。けれどももう何かを言ってもホルマジオには伝わらないような気がした。
だから、そっと背中を撫でた。
「…………………………」
ホルマジオの背中を、子供をあやすように撫でる。ありったけの気持ちを込めて、背中をゆっくりと少し強くさすった。
「ごめんな……ごめんなイルーゾォ…………オレ最低だわ…………」
(そんなことないよ。大丈夫だよ)
「オメーのこと、何だと思ってるんだろうなぁ…………」
(可哀想な子で、いいよ。本当にそうだし。おれ、哀れまれるのは嫌いじゃないよ)
好きな気持ちは本当なのに、どうして歯車がずれてしまうのだろう。
ホルマジオの背中を撫でながら、イルーゾォは宙を見上げた。
未来は見えなかった。
【END】
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