殺人事例 〜マーダーケース〜 リゾット・ネエロの場合 |
| 午前二時。 街も、人も、草木も、静かに眠っている。風と虫の音だけが空気を震わせ、時間が止まらずに流れていることを証明していた。 「…………………………」 黒い影が屋敷の裏口にスッと近づく。街灯の明かりも届かない建物の陰で、目をこらしてもそこに何者かが潜んでいることは分からない。気配もなく、草陰にいる虫たちもかまわずに鳴き続けている。だが、確かにそこには何かがいた。 それが、暗殺者リゾット・ネエロだ。 彼のスタンド『メタリカ』は磁力を操る能力を持つ。凡庸な者ならば、その能力をただの磁石のようなものだと考えるだろう。だが彼は己の素質を突き詰め、あらゆる努力を費やして、このスタンドの可能性を限界まで引き出した。 その一つが、これだ。細かい鉄の粉を身にまとい、保護色のように体に周囲の背景を描く。こんな夜ならただ黒一色をまとうだけでも、闇に溶け込んでその姿は見えなくなってしまう。 ゆらゆらと景色を歪めるような、陽炎のような黒いものが裏口にとどまっている。どこからともなく鍵が出てきて、まるで吸い付くように鍵穴に刺さった。 カチリ、と、虫の鳴き声より小さな音を立てて、鍵が回る。そして扉が音もなく開いた。 「………………………………」 影となったリゾットが中へ入る。 真っ暗な廊下を、気配が侵入していく。景色がほんの少し歪んでいるが、暗闇の中ではほとんど気づくこともない。そもそも見ている者は誰もいない。 廊下に敷かれた高級な絨毯が、一定の速度と距離を保ってかすかにへこむ。まるでよく知っている自宅の中を歩くかのように、足跡だけが一歩ずつ迷うことなく前へと進む。 ふと、進行が止まる。部屋の扉の前で、足跡は立ち止まった。 「………………………………」 呼吸を、ひとつ。 ただそれだけで、終わる。 もし誰かが見ていたとしても、今何が起こったのかは理解できないだろう。だが、リゾットは指先ひとつ動かすことなく、この瞬間に恐るべき仕事を成し終えていた。 部屋の中でベッドに横たわる夫婦は、この家の主人と妻だ。表向きは事業に成功した金持ちだが、裏では麻薬取引で莫大な利益を得ている。それゆえギャングの組織に狙われることになったのだが、そんな経緯はリゾットには関係ない。 横たわる男女はすでに息絶えていた。顔には苦痛もなく、目立った外傷もない。静かに眠ったままの姿で、だがその呼吸は完全に止まっている。 死因は脳溢血。脳の中で血管が破れ、血液が流れ出して即死した。 これもまた、磁力を操る『メタリカ』の能力の使い方のひとつだ。人間の血液中にある鉄分を引き寄せ、カミソリやハサミなどの鋭利な刃物に成形することができる。だが脳の血管に傷をつけるならばそんな大がかりなことをしなくとも、小さな針の先を血管内に発生させるだけで十分だ。脳の血管の中で針が生まれ、血管を破ったら、針は元の鉄分に戻せば良い。司法解剖をしても凶器は発見されず、絶対に見破ることのできない完全犯罪が成立する。 「………………………………」 リゾットは再び歩き始める。この家の間取りは完全に頭に入っているので、最短ルートを通って順番に家人の寝室を巡っていく。時間を掛けないのが、リスク低減の鉄則だ。だが、主とその妻を始末した後にまだ誰が残っているというのだろう? リゾットはためらうことなく廊下を進み、二階へと通じる階段を上り始めた。二階には、この家の子供が寝ているはずだ。十三歳、十歳、そして八歳。まだ世間を知らない幼い子供たちも、ボスが下した任務の標的(ターゲツト)に含まれていた。『一家を皆殺しにしろ』という命令で、子供とて免除されない。復讐を恐れているのか、あるいは他の勢力に見せしめの意味を込めているのか。それは一介の暗殺者であるリゾットの知るところではない。ただ命令されるがままに、両親と子供を皆殺しにするだけだ。 広い階段も、柔らかい絨毯が敷いてある。この階段ならうっかり子供が転倒しても、大きなけがをせずにすむだろう……、と、リゾットはふとそんなことを考えていた。 二階の廊下は広く、いくつもの扉がある。だが使用人は関係ない。リゾットはまるでここの家族の一員のような確かな足取りで、迷うことなく一つ目の扉を選んだ。 「…………………………」 ここは十歳の子供が寝ている。扉の前に立ち、それを開けることさえせずにリゾットはスタンドを呼び出した。小さな脳に傷をつけ、苦しまないようにこの世から送り出す。幼い命の火がひとつ、はかなく消えた。 身を翻し、後ろの扉を睨む。こちらは十三歳の子供の部屋だ。 「…………………………」 同じように、『メタリカ』を使う。子供は夢から醒めることなく、永遠に眠ったまま横たわっているだろう。 最後の一人は、階段の反対側の部屋にいるはずだ。リゾットは闇の色を身にまとって、音もなく廊下を歩む。 リゾットの心は凍っていた。迷えば余計な時間を食う。隙が生じればミスを犯す。だから任務はあらゆる感情を封じて向かわなければならない。 (十歳、十三歳。……最後が、八歳) まだこの世に生を受けて、たったそれだけしか生きていない。大きな罪を犯したこともないだろう。誰かの強い恨みを買うようなこともないだろう。ただ、親が裏世界の汚い生存競争に参加していたことだけが悪かった。そのせいで、満足に生きることもできず死んでいく。 (生きることができない、ということは、悲しい) そう「考える」。だが、「想う」ことはしない。死ななければならない子供のことを「想って」はいけない。 リゾットは殺意を秘めて廊下を行く。これから八歳の罪なき子を葬るという、殺意を持って歩みを進める。ボスの命令で子供を殺すのはリゾット自身の「意思」ではないから、それを殺意と呼ぶのはおかしいと言う者があるかもしれない。だが、リゾットは自らの「意思」で、これから子供を殺そうとしている。 リゾットは子供に恨みでもあるのだろうか? いや、この一家とリゾットは縁もゆかりもない。まったくの赤の他人だ。一家の顔も声も知らないし、知ることもなく殺して、知らないままに立ち去るだろう。 ではリゾットは冷酷な、人殺しを楽しんでやっている連続殺人者(シリアルキラー)なのだろうか? それもまた間違っている。リゾットは殺しを楽しんだことはただの一度もない。常に目的があり、信念があり、思想がある。そこには衝動も快楽もない。 (十三歳と、十歳と、八歳。あの子もまだ八歳だった……) リゾットの胸の中に、幼い少女のこわばった顔が浮かんでいる。たった八年の人生を強制的に終わらせられたその瞬間の、恐怖に見開かれた目を、おびえた顔を、今でもリゾットは忘れることがない。 あの子が殺されたように、リゾットもまた、無垢な子供の人生を終わらせる。あのドライバーと同じことをしている。 だがリゾットの歩みは止まらない。最後の子供の命を奪うために、その部屋に向かっている。階段の向こう側の、手前左側の扉。そこに八歳の子供が寝ているはずだ。 「………………?」 ふと、リゾットの足が止まる。 明かりがないはずの廊下に、小さな光が差し込んできたからだった。 左側の扉が開き、中から少女が出てきた。眠そうにうなだれ、ゆっくりとした足取りで廊下に出てくる。 (……起きて来てしまったか) おそらくトイレにでも行くのだろう。こんなタイミングで廊下で鉢合わせすることになるとは思わなかった。予定外だ。 一瞬の動揺が、運命を決める。 「…………あれ?」 廊下に出て来た少女は、トイレに向かおうとしてビクッと体をこわばらせた。自分の部屋から漏れる明かりに照らされて、廊下に何かぼんやりとした黒い塊が立っているのが見えたからだ。 ヒッ、と少女が息を呑むのと、リゾットが『メタリカ』を発動したのはほぼ同時だった。 ……お化けがいるっ! 少女はそう叫んだつもりだった。だがこのとき彼女の小さな口から出たのは、「うっ」というかすかなうめき声だけだった。 一瞬にして命を奪われ、少女は廊下に倒れた。大人より遙かに軽い八歳の体は、上質な絨毯の上に倒れても小さな音しか立てない。深夜の廊下にほんのわずかなドサッという音を残して、少女はそれきり動かなくなった。 (このままではまずい) こんな見つけやすい場所に死体が転がっていたら、騒ぎになるのも早い。使用人が起きてくることは十分考えられるし、今すぐ急いで逃げるよりは手間を掛けても死体を移動させておくほうが得策だ。 砂鉄の迷彩を解き、リゾットは少女の体を抱きかかえた。フリルのついたパジャマを着た少女は、くまのぬいぐるみを抱えていた。一人でトイレに行くのが怖かったのだろう。そのぬいぐるみもつかんで、リゾットは足早に子供部屋に入って扉を閉めた。 少女の顔は恐怖に見開かれている。八歳の少女の恐怖に歪んだ顔を見て、リゾットの眉間に深いしわが刻まれる。 (最期に怖い思いをさせてしまったな……オレの落ち度だ。すまない) まだ温かい少女の体を、同じくぬくもりの残るベッドに寝かせる。目を閉じさせ、おでこを指でなでてやると、ようやく穏やかな柔らかい表情に戻った。だが、死んだ少女の心には恐怖が残っていることだろう。 死んだ魂に、恐怖の記憶は残るのだろうか。それは分からない。だが、この小さな体の中に最後に「恐怖」を植え付けてしまったことは、リゾットにとって痛恨の出来事だった。 「…………すまなかった」 小さく、声にならないほどのかすかなささやきが、リゾットの唇を震わせる。恐怖を抱えたまま冷たくなっていく体に、せめてもの心遣いで布団を掛けてやる。 否応なしに胸が痛む。 (何も知らずに、逝かせてやりたかった……) あの子のように、恐怖に顔を歪ませながら死んでいく必要はない。何も分からず、眠ったままで、苦痛も感じることなく逝かせてやりたかった。そのためにリゾットは慎重すぎるほどの下調べを行い、入念に準備を重ねて暗殺をする。それでも今回のように、恐怖を味わわせてしまうこともある。とんでもないミスだ。二度と同じ間違いを犯してはならない。 (すまなかった……) 罪のない命を奪っておいて、許されるわけがない。恐怖を与えたことよりも、命を奪ったことを悔いるべきだと、まっとうな善人なら指摘するだろう。だがリゾットは暗殺者だ。殺人を悔いるくらいならば、暗殺者などにはなっていない。 リゾットはじっと子供の顔を見つめている。 (八歳の子供が、命を奪われてしまった。……生きられないということは、とても悲しい) また、同じことを考える。だが、悲しいと「想って」はいけない。「想った」ら、リゾットはもう二度と立ち上がれなくなる。リゾットは暗殺者でなければならないのだ。 部屋をぐるりと見渡す。恵まれた少女の部屋は、美しい装飾とかわいらしいおもちゃで溢れていた。真っ白いきれいなレースのカーテンが窓に掛けられ、大人も顔負けの高級なドレッサーが設えてある。富と愛情がたっぷりと注がれた部屋を見て、リゾットはただひたすら考えていた。 (とても悲しいことだ) 少女に罪はない。ただ、親は裏の世界に手を出した。それゆえに両親は殺された。それはたとえリゾットが手を下さなかったとしても、他の誰かが実行するだろう。それだけのことをこの家の主人はしていた。 もしリゾットが手を下さなかったらどうなっていたか。もしも、という仮定には何の意味もないが、残忍な精神異常者(サイコパス)が暗殺者として送り込まれ、快楽のために残虐な手段をもって殺す可能性はある。見せしめのためにとんでもない虐待の上、殺す可能性もある。子供たちもひどい恐怖と苦痛を味わわされるかもしれない。 それらの可能性はどうあれ、実際はリゾットが苦痛も恐怖もなく命を奪った。それがリゾットの選んだ現実だ。 そしてもう一つ意味のない仮定を持ち出すならば、リゾットが幼い死を「悲しい」と想って、子供を密かに逃がしていたらどうなるか。子供たちは生き延びることができるだろう。だが両親を失い、富を失い、憎しみだけを心に宿らせた不幸な子供が三人、世に放たれるだけだ。その子供たちはきっと、親を殺した暗殺者に復讐を誓うだろう。与えられた人生を復讐に費やし、あるいはその血に呪いを宿してでも、親の仇を追い続けるだろう。……そういう子供を、リゾットは知っている。 だから慈悲心を起こして子供を逃がすことはしない。殺せと命じられれば、ためらいなく殺す。 もしも親だけを殺せという指令だったなら、もちろん子供は生かしておく。だがその場合にも、リゾットには鉄則があった。 『……決して復讐などできぬほど完璧な親殺しを遂行すること』 親を殺された子供に、よもや復讐など考える余地もないほど、手がかりのない完璧な暗殺を成し遂げる。誰が何のために親を殺したのか。想像するきっかけさえないほどの、完璧で絶望的な殺人。それがリゾットの揺るぎない信念だ。 (あの日、暗殺者がそうしてあの子を殺していたら、オレは変わっていただろうか……?) たまにそんなことを考えることがある。いとこの少年に目撃されることなく、何の手がかりも残さずにあの子が殺されていたら、リゾットは復讐する気になっただろうか。恐怖に歪んだあの子の最期の顔を見ていなかったら、リゾットは血が呪われるほどに暗殺者を憎むことができただろうか。 ……それは分からない。 ただ、誰の目に触れることもなく、復讐の余地すら与えないような暗殺を実行すること。それだけはリゾットの中で確固たるポリシーとして存在している。 死ぬ者には、安らかな最期を。 残された者には、静かな諦念を。 それが暗殺者リゾット・ネエロのやり方だ。 (何が幸福か、不幸か、それは誰かが決められることじゃない) 今日殺された三人の子供が、不幸だったのかどうか。今日まで親の愛情を受け、他の子供よりも金銭的に豊かな日々を送って、夢を見たまま命を終えたことは、不幸だったのかどうか。 憎しみを背負って生きることが不幸なのか。 いっそ穏やかに死に逝くことが幸福なのか。 それはリゾットに決められることではない。だが、子供たちがどちらの道を行くのかは決めることができる。 だからリゾットは決めた。 子供たちに、安らかな死を。 (オレはきっと、間違っているのだろう) どんな理由であれ、人の命を奪うことは間違っている。だがこの世はすでに間違いだらけだ。組織のボスは利益のために人を殺し、敵対する者同士も殺し合う。リゾットがやらなくても、誰かがやる。言い換えれば、これはもはや誰かがやらなければならないことなのだ。 (だからオレは、それを引き受けよう) リゾットが暗殺から手を引けば、その任務はすぐにチームの誰かに引き継がれる。子供を殺す仕事も、無実の人間を殺す仕事も、チームの誰かがやることになる。たとえ今の暗殺チームが全員そろって足抜けをしたとしても、新たな暗殺者が組織に雇われ、そしてボスの命じるままに人を殺し、子供を殺す。ならばリゾットがそれをやっても同じことだ。 せめて苦痛なく、恐怖もなく、そして禍根を残さぬように。 持てる力の全てを費やし、できる限りの努力を惜しまずに、心血を注いで、安らかな死を与える。子殺しの大罪を背負う。 (他の誰にも、手を染めさせることはしない) 標的(ターゲツト)が子供の場合、リゾットはその任務を部下に任せることはしない。そんなものを仲間に背負わせたくない。それは思いやりなのだろうか。それとも歪んだ自己満足か。 もう一度少女の額に手を当てる。早くも失われつつあるぬくもりを手のひらで感じて、少女がついさっきまで生きていたことを考える。少女の命がここで尽きたことを覚える。 「…………………………」 リゾットは黙って部屋を出た。再び闇色の砂鉄を身にまとい、今度こそ誰の目にも触れることのないよう、細心の注意を払って裏口を出た。扉に鍵を掛け、敷石を踏んで裏庭から立ち去る。 明日の朝になれば、使用人が主人一家の死体を発見して警察へ通報するだろう。だが痕跡は一切残していない。一家五人が一夜にして脳溢血で死亡するという事件に不審な点は多いが、まさか暗殺者の仕業を疑う者はいないだろう。使用人が容疑者になる可能性は高いが、それはリゾットの知ったことではない。高い給金で裏世界の人物に雇われていた不幸が巡ってきただけのことだ。命があるだけましだと思わなければならない。 夜の街を歩きながら、リゾットは手のひらに残るぬくもりを思い出していた。 (幼い子供が死ぬのは、本当に悲しい) リゾットは、三人の罪のない子供の死を「想った」。生きられなかった、という、理屈を超えた悲しみがリゾットの胸に広がる。 誰よりも子供の死を悼む男が、誰にも任せずに自ら子供の命を奪う。 それがリゾットの選んだ暗殺者の道だ。 <END> |
リゾットはいとこの子を殺されて、復讐して、暗殺者に成り下がった。でも暗殺者なら、命令次第では子供を殺すことだってあったんじゃないかと思います。その葛藤をどう処理していたか。ずっと想像していたらこのような形になりました。もしイメージと違っていたらすみません……。 |
| By明日狩り 2011/08/07 |