殺人事例
〜マーダーケース〜


イルーゾォの場合









「ここか」
 平和な郊外の一軒家を見上げて、イルーゾォはふんと鼻を鳴らした。つまらない仕事だな、と思う。わざわざ暗殺チームを引っ張り出すほどではないと思うのだが、これも一応はリーダーから命令された仕事なのだから仕方がない。

 郊外の一軒家に住む一人暮らしの女を、殺し方は問わないからとにかく仕留めればいいということだ。周りに民家はない。どんなに騒がれても見つかる心配はないし、死体を放置してもしばらく見つかることはないだろう。

(痴情のもつれで組織の奴とモメたか、あるいは何かヤバいものでも見ちまったのか……。どっちにしたってかわいそうなことだな)
 こんな女がギャングの組織に命を狙われるなど、よほど運が悪かったとしか思えない。せめて苦しまずに殺してやろうと、イルーゾォは余裕の表情を浮かべて家に忍び寄った。

 窓から部屋の中を覗き込むと、ちょうどいい具合にそこに鏡があった。女の家だから鏡ならたくさんあると思っていたが、予想通りだ。鏡があれば、面倒なピッキングもしないで室内に侵入できる。イルーゾォは持参した手鏡をかざすと、スタンドを呼び出した。
「マン・イン・ザ・ミラー!」
 鏡の中に入り、室内に掛けられた鏡を出口にして、難なく家に入りこむ。あまりにも簡単に行き過ぎるのでいささかやる気をそがれるほどだった。

「さて、どこにいるのかな……」
 廊下へ出て、キッチンと思しき方向へ足を向ける。さっき外から見た限りでは、換気扇が回っていたのでおそらく昼食を作っている最中だろう。料理に夢中になっているところを、後ろからそっと近付いて一息に首を掻っ切ればいい。足音を忍ばせながら、イルーゾォは人の気配を探して廊下を進んでいく。


「何をお探しだい?」

「ひゃっ!?」

 いきなり声を掛けられて、イルーゾォは飛び上がらんばかりに驚いた。いつの間にか背後に体つきの大きな中年女が立っていて、ニヤニヤしながらこちらを眺めている。片腕に赤ん坊を抱いて、反対側の手には大振りの包丁を持っていた。

「泥棒かい? そりゃあ運がなかったね。こんな家に入るなんて、アンタ本当に運がないよ」

 女は余裕の笑みを浮かべながら、予備動作もなくいきなり包丁を振り上げた。いつの間にか上向きになっていた刃を間一髪のところで避けて、イルーゾォは二三歩後ろへよろける。

「んなっ……?」
「おや、避けたかい。みどころがあるね」
 女はすかさず二撃目、三撃目を繰り出してくる。予測がつかない包丁の動きに翻弄されながら、イルーゾォはどうにかそれらを避けた。

(はっ、速いっ!)

 女の包丁は目にも止まらぬ速さで、的確に急所を狙ってくる。リーダーにナイフ術を仕込まれているイルーゾォは反射的に急所をかばい、すんでのところですべての攻撃を避けることができた。だがこれは明らかに素人の技ではない。

「お前……プロか?」
 イルーゾォは青ざめた顔で後ずさる。女は片手に赤ん坊を抱えたまま、ニヤリと笑うと包丁で空を切る。その切っ先は明らかに何らかの訓練を受けた者の軌跡を描いていた。
「そうさねえ。昔はそんなこともあったかね。けど今はこの通り、かわいい子供と平和に暮らすただのシングルマザーだよ。ま、おかげで……」
 女は顔色一つ変えずにいきなり包丁を繰り出してきた。体をねじって紙一重で避けたが、その切っ先は一瞬前までイルーゾォがいた空間を確実にとらえている。
「こうして暴漢が襲ってきても、身を守ることができるがね」
「……クッ」

 女は片手がふさがっているとは思えないほどの身のこなしで、息つく間もなく攻撃を繰り返す。防戦一方で反撃に転じることもできず、イルーゾォはだんだんと廊下の奥へ追いつめられていった。

(こ、こんなの、聞いてねーぞっ!)
 標的の情報は事前に諜報係のジェラートから受け取っていたが、そんなことはどこにも書いていなかった。ただ、一人暮らしの女、としか聞かされていない。女が戦闘訓練を受けていたとか、赤ん坊がいてシングルマザーだとか、そんなことは何も言っていなかったはずだ。
 だが、そんなことは何の言い訳にもならないだろう。油断していたのはイルーゾォの怠慢であり、こういった状況も想定してしかるべきだった。こんな中年女に翻弄されたとあっては、暗殺者の名がすたる。相手が戦闘のプロだろうが、ギャングだろうが、暗殺チームのイルーゾォが負けるわけにはいかない。ましてやこんな、赤ん坊を抱えたままキッチン道具で攻撃してくるような女に敗北するなんて、絶対に許されないことだ。

「くそっ」
(油断した! ああ畜生、こんなことチームの奴らに知られたら絶対バカにされちまう……)
 仲間が知ったらきっと口をきわめて罵倒されるだろう。それだけならまだしも、リーダーのリゾットが知ったら何と言うだろうか。どんなときにも慎重に慎重をかさねて準備するタイプのリゾットは、敵を甘く見たせいで任務に失敗したなんて聞いたら激怒するに違いない。
 単独任務だったことはむしろ幸運だったかもしれない、とイルーゾォは思った。とにかくこの場を無傷で切り抜ければ、この失態は挽回できる。

「クッ……!」
 廊下の突き当たりにあるドアを開け、素早く中へ体を躍らせる。そこはどうやら寝室らしく、格子のはまった窓がひとつあるきりだった。ただの侵入者なら絶望するところだが、イルーゾォは別の物を探して素早く中を見回す。部屋にはベッドとサイドテーブル、そしてここにもまた鏡があった。上から下まで全身が映るサイズの、大型の姿見だ。

(た、助かった!)
 鏡さえあればこっちのものだ。持参した手鏡は家の外へ置いてきてしまったが、女の家というのはそこかしこに鏡がある。
 ようやく安心して、イルーゾォは背後を振り返った。

「おやおや、ぶしつけなお客だ。女の寝室に勝手に入るだなんて。ね、困ったもんでちゅねえ?」
 寝室が行き止まりであることを女は心得ている。片腕に抱えた赤ん坊に向かって「ねぇ」と笑みを向け、女はゆっくりと部屋の中へ入ってきた。
「さあて、どうするね?」
 包丁を弄びながら、女は体格のいい体で部屋の入り口を塞ぐように立ちはだかる。明らかに状況を楽しんでいるその顔からは、警察に通報するなんて考えは微塵も持っていないことが分かる。このまま侵入者をなぶり殺しにして、庭にでも埋めるつもりだ。何しろ郊外の一軒家で、周りには民家もないのだから。誰にも知られることはない。

(この女……こうしてたまに狩りを楽しんでやがるのか……?)
 一度その道に入ってしまったら、なかなか抜け出すことはできないものだ。足抜けして平和に暮らしているつもりでも、隙あらば命のやり取りを望む心が顔を出す。もしイルーゾォが貧しさに耐えかねてつい出来心を起こしたただの物盗りだったとしたら、ここまでやるのは行き過ぎだ。

「こりゃあ、殺されても仕方ない女……ってことだよなぁ」
「何をごちゃごちゃ言ってるんだい? 神様にお祈りするなら待っててあげようじゃあないか」
「そりゃあアンタのほうだな、オバサン。命乞いしたって無駄だ」

 イルーゾォはにやりと笑い、軽く顎を上げて女を見下してやる。その挑発をも平然と受け流して、女は包丁を構えた。
「なんだいあんた、余裕じゃないか」
「オバサンこそ」
 そう言いながら、イルーゾォはふと妙なことに気づいた。いくら女がプロ級のナイフ技を持っているとしても、この態度は余裕がありすぎる。敵を追いつめたとはいえ、相手は得体の知れない侵入者でしかも男だ。少しは怯えや焦りがあってもいいんじゃないだろうか。

(もしかしたらこの女、まだ奥の手を隠しているんじゃないのか……?)
 鏡を見つけてまたすっかり油断してしまっていたが、ここで打つ手を間違えたり、あまつさえ女を取り逃がしたりしてしまっては、本当に暗殺者失格だ。もう一度気を引き締めて、注意深くやらなければいけない。

(よし)
 イルーゾォは余裕の笑みを作って胸を張り、女に宣言した。
「おれの前に立ったのなら、お前ももうおしまいだ」
「妙なことを言うね」
「さっさとあの世へ送ってやるよ。……死ね! 『マン・イン・ザ・ミラー』ッッ!」

 イルーゾォの雄叫びとともに、スタンド『マン・イン・ザ・ミラー』がその姿を現した。目を分厚く覆うゴーグルとぽっかり開いた口は、光の届かない深海にうごめく魚か、もしくはある種の爬虫類にも似ている。異形の頭から肩へ広がる短いケープをまとい、その下に見える体はたくましく筋肉が発達した人間の肉体に酷似していて、どこか首切り役人を思わせる装いだ。

 イルーゾォがスタンドを出した瞬間、女は思わず声を上げた。
「スタンド!?」
「ほぅ、やはりお前もスタンド使いだったか」

 その反応を見て、イルーゾォはニヤリと笑った。スタンドの姿が見えるのは、スタンド使いだけだ。やはりこの女もまた、スタンドという切り札を隠していた。
「だが……おれのスタンドの前ではそれも無駄なことだ。行け、『マン・イン・ザ・ミラー』! 女は許可する! だが女のスタンドは許可しないぃィ!」
 その呼び声に応えて、スタンドが腕を広げて女に襲い掛かり、鏡の中の世界へと引きずり込む。

「ひッ!?」
 女はとっさに身構え、反撃しようと包丁を振りかざしたが空振りに終わった。いや、正確には、持っていたはずの包丁が途中で煙のように手ごたえがなくなった。
「な……なに…………? ああああああああッ!?」
 用心深く顔を上げた女は、目を大きく見開いて驚愕の悲鳴を上げた。
「何! 何なのこれはっ!」
 住み慣れた寝室が、鏡に映したように左右反転している。見慣れた風景だけに、鏡の中の世界に引きずり込まれたときの衝撃は大きかった。
「ひいいいいっ!」
 先ほどまで余裕の笑みを浮かべていた女は、一転して恐怖の表情に変わる。
「まさかっ! こんなっ!」
 あたりを見回して、左右反転した異常な光景に混乱をきたす。ついさっきまで女は、哀れな侵入者を獲物にして、狩りのような気分で敵を追いつめていたはずだった。それが急に世界が反転して、おまけに一番大切なものが腕の中から消えている。

 抱いていたはずの赤ん坊が、そこにいなかった。

「赤ちゃん! 私の赤ちゃん!」
 女は泣き叫び、壁に掛けられた鏡に取りすがった。そこには寝室の様子が映っていたが、女自身の姿はない。代わりに、泣いている赤ん坊が床に転がっているのが見えた。

「あの赤ん坊がスタンドだったのか。驚いたな」
 スタンドを従えて、イルーゾォがため息を漏らす。スタンドを許可しなかったはずなのだが、赤ん坊が取り残されているということは、あれこそが女のスタンドだということになる。まさか目に見える形でスタンドを抱いているとは思いもよらなかった。
「本当に油断ならないな……」
「赤ちゃん! 私の子供! ああああああ―ッ!」
 女は半狂乱になりながら鏡を叩いている。だが鏡の世界の物質はイルーゾォにしか触れることはできない。どんなに鏡を叩いても、通り抜けることはもちろん、割ることだって絶対にできない。

 鏡の中の世界は、生きるもののいない死の世界だ。イルーゾォが許可した「女」だけ入ることができるが、生の世界のものである包丁やスタンドはあちら側へ置いてきてもらった。もうどんなにあがいても女に勝ち目はない。
「さあ……死んでもらうぞ。覚悟するんだな」
 うっすらと笑みを浮かべ、イルーゾォはゆっくりと女の背中に歩み寄っていく。女ははっとして振り返り、今度こそ恐怖に歪んだ顔でイルーゾォを見上げた。
「ひいいいいっ!」
「残念だったな。どんな能力を持った赤ん坊かは知らんが……お前の命はここで終わる」
「いやっ……いやああ! お願い! お願い! あの子を返してえっ!」
 女は急に泣き出すと、両手を組んでイルーゾォの前にひれ伏した。まるで物乞いのように床に頭をつき、さっきまでニヤニヤと余裕の笑みを浮かべていたとは思えないほどの哀れな表情で号泣し始める。

「分かった! もう死ぬならそれでいい! 私は組織を足抜けしたけど、いつかは追っ手がかかると思ってたんだ! 分かってたんだよ私には!」
「ならばおとなしく死ぬんだな」
「だからお願いだ! 最後にあの子を抱かせておくれよ! 確かにあの子はスタンドだけど、何の役にも立たないただの赤ん坊なんだ!」
「バカな」
 見え透いた嘘とわざとらしい演技に、イルーゾォは思わず失笑した。こんなのは嘘に決まっている。お涙頂戴の演技で同情を誘い、スタンドを取り返して反撃するつもりだ。あまりにもお粗末な作戦だ。
 だが女は諦めない。両手をイルーゾォの前につき、滂沱の涙を流しながら床に頭をこすり付けて叫ぶ。

「聞いておくれ! あの子は死産だったんだ。身重で傭兵稼業を続けた罰が当たった。生まれてくる前にお腹の中で死んじまった。私は後悔した。人を殺して生きようとした女が、新しい命を産むなんてことが許されなかったんだってね」
「…………くだらない」
 真面目に聞く気も起こらない。このまま首を掻っ切ってやろうとしたが、なぜか体が動かなかった。バカバカしいと軽蔑する反面、心のどこかで女の言うことが気になり始めている。イルーゾォの素質が、女の言葉に秘められた真剣さに気づき始めていた。

 女は魂を吐き出すような真剣さで訴え続ける。
「赤ん坊の小さな骨を埋葬してさ。やけになって麻薬に手を出そうとして、そこで「組織」のことを知った。誘われるままに「組織」に入って、私はスタンド能力って奴を与えられたんだ。そうしたら! 死んだはずの赤ん坊が帰ってきたんだ! お墓の下から這い出してきてさあ! そりゃあもうかわいかった!」
「……………………」
 女の目が爛々と輝いている。歪んだ唇から涎を垂れ流し、涙でぐちゃぐちゃになった顔に喜びをあふれさせて、女はそのときのことを思い出しているらしい。もはや正気の沙汰ではない。

「でもね、それだけだった。私のスタンド能力は、死んだ赤ん坊が蘇る、ただそれだけだったのさ。「組織」には何の役にも立ちゃあしない。だから私はお払い箱になった。それでよかったんだ!」
「…………知るもんか。おれはただ、お前を殺すよう言われただけだ……」
「だから殺したいなら殺せばいいのさ! ただ、お願いだよ! 最後にはあの子と一緒にいさせておくれよ! あの子は何の力もないんだ。ただの赤ん坊なんだよ。スタンドだけど、私の赤ん坊なんだよ!」

 女は必死の形相でイルーゾォの足に取りすがった。
「ひいっ! 寄るんじゃねえッ!」
「うぐっ」
 思わず女を蹴り飛ばし、イルーゾォは息を呑んだ。心臓がドキドキと早鐘のように脈打っている。女の真剣さが、声の震えが、視線の重さが、言葉の固さが、急にイルーゾォにのしかかってくる。

(嘘だ……こんなの嘘に決まってるだろう……?)
 泣き叫ぶ女を見下ろしながら、イルーゾォは自分に言い聞かせた。

(何の能力も持たないスタンドなんか、あるわけがない。こいつはおれを油断させて、反撃のチャンスを窺ってるんだ。うっかり同情なんかしようものなら、あの赤ん坊がとんでもないパワーでおれを打ちのめす。そんなの分かりきってる……)
 すぐさま、女の口を塞いで叩きのめすべきだ。イルーゾォは拳を握り締めた。けれど女が最期の命を賭け、全身全霊を賭けて放つオーラに圧倒され始めている。

「ねえ、本当だよ! お願いだ! あの子を抱きしめていたいんだ! せっかく墓場から蘇った子供なんだよ! 最後まであの子を抱っこしていたいんだよおおおおぉぉォォォォォ―ッ!」
「うるさい……うるさい……ッ!」
「お願いだ! 離れ離れは嫌なんだ! 一人ぼっちで死ぬのは嫌なんだよ! あの子と離れたくないんだよ! ねえお願いだから! お願いだからあの子を奪わないでおくれ!」
「黙れ、黙れ、黙れえええッ!」
「お願いだよおおおおぉぉぉ!」
「嘘だ! お前は嘘を吐いている!」
「嘘じゃない! あの子は何の力も持っていない!」
「嘘だうそだうそだうそだあああああっ!」

 怨霊のような女の声が、イルーゾォの魂を掴んで強く揺さぶる。心の迷いを振り切って、イルーゾォは大きく叫んだ。

「殺せええええええ―ッ!」

 その声に応えて、スタンドが女を嵐のように滅多打ちにする。重い拳が女の骨を砕き、内臓をぶち破って、血と体液の混じったものがあたりに飛び散った。

「ぐ……ぶぇ…………」
 女はよろめき、鏡にぶつかってずるずるとくずれ落ちた。血にまみれた顔を鏡に向け、おかしな方向へ曲がった指でその表面を撫でる。
 鏡の向こうには、母親の姿を探して這っていた赤ん坊がすぐそこまで来ていた。鏡に手をつき、そこに見えているのに触れることができない母親に向かって手を伸ばす。母親の手に抱かれようと体を乗り出すが、冷たい鏡に遮られてそれも叶わない。
「あかちゃん……あたしの……あかちゃん……」
 瀕死の母親は血を吐きながら、赤ん坊を撫でるように鏡をこすっている。鏡を隔てて、母子は最期の別れさえ許可されない。
「あ……あかちゃ…………」
 ごぼっと嫌な音を立てて、女が血の塊を吐き出す。鏡に唇を押し当て、わが子に届くことのないキスをすると、女はそのまま動かなくなった。



「……………………」
 苦しそうな呼吸も止まっている。赤ん坊を求めて伸ばされた腕ももう動かない。けれどその体から流れ出す温かい血液だけはとめどなくあふれ、床へ広がって、イルーゾォの靴の先を汚している。

 人間からただの生ゴミへと変わりゆく女の肉塊をじっと見下ろしながら、イルーゾォは心を動かされまいと唇を噛み締めた。けれど、どうしても動揺が止まらない。咽喉の奥から震えがこみ上げ、生唾とともに何度飲み下しても感情があふれてきてしまう。

(これで、いいんだ)

 何度も自分に言い聞かせる。あの赤ん坊が無害なスタンドだったはずがない。あんなことを言って、油断させようとしていただけだ。反撃のチャンスを窺っていただけだ。イルーゾォはその手に乗らなかった。正しい判断だ。絶対に間違ってはいない。

「……………………」
 鏡の向こう側で母親を探していた赤ん坊が、両手を鏡についたまま動かなくなった。赤ん坊は見る見るうちに小さく縮まり、空気の抜けた風船のようにしぼんでいく。

(スタンドだ。やっぱりスタンドだった)
 本体が死ねば、スタンドも消滅する。やはりスタンドを母親から遠ざけて正解だったとイルーゾォは思った。
 赤ん坊は小さくなり、溶けるように消えてなくなる。そして後には、まるでそこに存在した証のように小さな塊が残されていた。

「ん……?」
 スタンドの死体などあるわけがない。スタンドはあくまでも精神力の具現化したもので、肉体を持っているわけではないのだ。イルーゾォは首をかしげると、鏡の向こうを覗き込んた。

 それは小さな小さな、遺骨だった。

「バカな……」
 そんなことがあるわけがない。だがそれはどう見ても小さな人間の頭蓋骨と、肋骨と、背骨と、手足の骨だ。さっきの赤ん坊よりはずっと小さいが、きちんとした人間の形をしている。

「…………赤ん坊の骨……」
 唇を噛んで、イルーゾォは苦々しい口調でつぶやいた。

 もしも女の精神が子供の遺体に宿るような形でスタンドが発現したら、最期を迎えるときはこうなるかもしれない。メローネの『ベイビィ・フェイス』の息子のように、生身の肉体を持つスタンドだっていないわけではないし、ありえることだ。
(……でも、でも。だからってこの赤ん坊が無害だったって証拠はないんだ。何らかの能力を持っていて、返り討ちにされる可能性だってあった。だからおれは女と赤ん坊を引き離した。当然なんだ。そうするべきだったんだ。絶対に、母親に赤ん坊を引き渡したりしたらいけなかった……)

 暗殺者として、プロとして、リーダーに任務を託された身として、イルーゾォの判断は正しかった。考えうる状況を想定して、自分に有利な戦い方で目的を達成する。油断はしなかった。だからイルーゾォは勝ち、女は負けた。女もプロだったのだから、この結果に文句を言う権利はない。
(おれは間違ってない。おれはこうするしかなかった。母親に赤ん坊を返すなんて、絶対にできないことだ)
 拳を握り締め、唇を噛んで、何度も自分に言い聞かせる。それでも胸の奥からあふれる感情が止められない。自分で自分の心がコントロールできない。

「……う…………うぅ…………」
 歯を食いしばっても、こらえ切れずに涙がこぼれてしまった。鼻をすすり、感情を飲み込む。
(間違ってない。間違ってない。間違ってない)

 崩れ落ちた母親の死体と、小さくうずくまる赤ん坊の遺骨が、鏡に遮られて寂しく寄り添っている。
「うう……ううぅ…………」
 イルーゾォは咽喉を鳴らしながら、スタンドを解除した。分離していた世界が元の世界へと重なり、母親と赤ん坊の死体はようやくひとつに重なり合う。だがどちらももはや魂はない。生温かい生ゴミのような肉塊と、冷たく固い玩具のような骨がいっしょくたに床に打ち捨てられているだけだ。

「…………うぅ……」
 うつむいて、イルーゾォは部屋を出て行く。主を失った一軒家はまるでそのことを知っているかのように、寂しく悲しい空気を漂わせている。

(早く帰って、リーダーに報告しよう……)
 任務を遂行したと言えば、リーダーはきっと「よくやった」と言ってくれるだろう。赤ん坊がスタンドだったと言えば、「お前の判断は正しかった」と言うだろう。
(リーダーならきっとそう言ってくれる……)

 自分は暗殺者だ。だから暗殺者として当然の判断を下したまでだ。今はそのことを誰かに肯定してほしかった。

 まだ耳の奥に女の哀願がこびりついている。
 イルーゾォは咽喉の奥からこみ上げる感情を必死に噛み殺しながら、静かにその家を立ち去った。




<END>











「暗殺者のモチベーション」について考えるための考察その3です。今回はイルーゾォ。イルーゾォは精神的に弱いイメージがあるので、殺しにも躊躇したり後悔したり迷ったりすることもけっこう多いだろうなぁと思います。でも本人はクールなつもりなんであまり他人に同情しないようにしてるけど、うっかり心に踏み込まれるとすぐ泣いちゃう……みたいな。根っこはちょっぴり弱虫だけど頑張るイルーゾォが好きです。
 By明日狩り  2011/05/05