カフェ・アンチーカ 〜7年前の話〜 |
| ここはネアポリスの繁華街の外れにある、とある路地の一角。 左右を四階建ての古い建物に挟まれ、古風なセピア色に染まった景色を貫く石畳は、車一台がぎりぎり通れるほどの幅しかない。ゆるい下り坂になったその石畳を道なりに歩き、カーブになったところでふと立ち止まってみる。「あ、何か忘れ物をしたかな?」というような気持ちで何気なく後ろを振り返ると、建物の間にさっきはなかったはずの小さな下り階段があることに気づく。 普通なら見落としてしまうであろうその階段の入り口に立って、少年が一人、じっと暗がりを覗き込んでいた。クルクルときつくカールのかかった髪、意志の強そうなつりあがった目、子供にしてはサイズの大きな太縁の眼鏡を掛けている。小さな口を不機嫌そうにきゅっとすぼめ、少年はまるで冬眠する熊の巣穴を覗き込むような表情でしばらく階段を睨み付けていたが、やがて意を決するとその地下への入り口に足を踏み入れた。 薄暗く乾燥した階段を、赤いスニーカーの足が一歩ずつ降りていく。あなぐらのようにどこまでも続くかと思いきや、十段も下りないうちにすぐ扉に行き当たった。 『カフェ・アンチーカ』 薄汚れたガラス扉の横に、木の板に名前を彫った看板が立てかけられている。真新しい看板がきちんと掛けずに置かれているのは、まだこのカフェが営業を始めていないことを示していた。 少年は看板を倒さぬよう注意しながら、ガラス扉を引いた。見かけによらず扉は軽く、音もなく開くと埃っぽい匂いが中から流れ出してくる。 店の中はまだ改装中だった。といっても、カウンターやキャッシャー台は前の店に置いてあったものをそのまま利用しているし、テーブルやイスはアンティークらしい年季の入ったものが置いてあって、何が新しくて何が古いのだか見分けがつかない。壁紙だけは張り替えたようだが、それも百年前からそこにあったかのような古ぼけた色をしていて、はたしてこれから新しいカフェが開店するのか、それとも古いカフェが潰れたまま放置されているのか判然としない。 カウンターの前に置かれた脚の長いスツールに、背の高い男が腰掛けて書類を読んでいた。無造作に切った銀色の髪と、やけに黒く光を吸い込むような目をした、変わった風貌の男だ。年はまだ若く、二十代前半といったところか。 「…………ん?」 男は顔を上げ、扉を開けて立っている少年を不審そうに見つめた。二人はしばらく無言で見つめ合っていたが、やがて男のほうが口を開く。 「……どうした?」 まだ営業を始めたことのない、開店前のカフェだ。見知らぬ少年がこんな場所へ来ることは考えられない。だが、少年はまっすぐな目ではっきりと答えた。 「バイト。応募した」 「え……え……?」 「面接に来いって、言われた」 「………………」 男はそれでようやく、この少年がここへ来た理由を悟った。 「電話をくれたのは、君だったのか」 確かに、この声には聞き覚えがある。カフェのオープンスタッフを募集していて、昨日、若い男の声で応募の電話があった。「明日、この場所へ来てください」と言って面接の約束をしたが、まさか、こんな小さな子供だったとは。 少年は真面目な顔でうなずいた。 「電話した。昨日」 「そうか……。すまなかった。年齢を聞かなかったこっちが悪いな」 男は申し訳なさそうに眉をひそめ、ハイスツールから降りて少年の前にしゃがんだ。目線の高さを同じにすると、男は丁寧に少年の顔を覗き込む。 「確かにアルバイトを募集したんだが、料理ができる大人の人を探しているんだ。悪いが、君ではまだ小さすぎる」 「でも、料理はできる。覚えたらなんでもする」 「ありがとう。その気持ちは分かる。だけどうちのキッチンは大人用なんだ。君じゃあ背が届かない」 男はそう言って、背後にある厨房を振り返った。ここからでは見えないが、ガステーブルもシンクも少年の手には届かない大人用であることは想像に難くない。キッチンというのはおおよそすべてがそういう造りになっているものだ。 だが、少年は諦めずに食い下がった。 「じゃあ、運ぶんでもいい。掃除でもいい。なんでもするから、ここで働かせてくれ」 「うーん……困ったな」 男はしゃがんだまま少しうなだれて、首をかしげた。それからおもむろに立ち上がると、少年の肩に軽く手を置いた。 「ちょっと待っててくれ」 そう言い残して、男は厨房へ姿を消した。残された少年は真剣な表情でしばらく立ち尽くしていたが、辺りを見回すと、テーブルの上に逆さまに乗せてあったイスをひとつ下してそこへ腰掛けた。大人用のイスでは少年の足が床に届かないが、足をぶらつかせたりせずにお行儀よく座っている。 やがて、男が両手に白いマグカップを持って戻ってきた。 「君がお客さん第一号だ。ようこそ、『カフェ・アンチーカ』へ」 「……オレは客じゃなくて、働く人のほう」 「ああ、そうなるかどうかはまだ分からない。だから今はまだお客、だ」 「……………………」 そう言うと少年は納得したのか、うなずいてマグカップを受け取った。 カップに口を寄せると、熱い蒸気が顔をかすめる。容赦ない熱気を飛ばすために、少年はふーふーと懸命に息を吹きかけた。黒い飲み物の表面を、あどけない息がせわしなく撫でる。 「熱いのは苦手か?」 「猫舌だから」 「そうか、すまない。少し冷やしてやろう」 男は手を伸ばしてカップを取ろうとしたが、少年は腕を引いてその手を遮った。 「いい」 「しかし」 「これがいい」 少年は息を吹きかけ、荒々しい熱が取れるまで何度も水面を波立たせる。 その口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。 (大人の飲み物は、こーでなくっちゃなァー) 大人はいつだってひどく熱い飲み物を飲む。少年はそのカップを渡されたとき、自分が「大人」として扱われたことを誇りに思ったのだった。 そろそろ、飲み物が冷めただろうか。少年は恐る恐る唇を付けてみた。まだ少し熱いが、飲めそうだ。 「オレの名前はリゾットだ。君は?」 男がカップのコーヒーをすすりながら尋ねる。 「ギアッチョ」 「そうか」 「………………」 「ん? 何だ?」 名前を名乗ったギアッチョが、なぜか嬉しそうな笑みを浮かべてこちらを見ている。リゾットは不思議そうに首をかしげた。 「んー、別に」 そう誤魔化したが、ギアッチョはやっぱり嬉しかった。彼が名前を聞く前に自分から名乗ったのは、ギアッチョを子供扱いしていない証拠だ。子供に「君、お名前は?」なんて尋ねてくる大人はたくさんいるが、そいつらはいつだって自分から先に名乗ったりしない。大人たちは子供に質問する権利があり、子供にはそれに答える義務があると思っているのだ。 (それにこれ、コーヒー…………へへっ) 熱さを堪えてようやく唇を付けた飲み物は、ほとんど甘さのないコーヒーだった。うっすらと砂糖の味がするような気もするが、子供の舌に十分な甘さとはとても言えない。リゾット自身の好みに合わせたのか、それとも子供が喜ぶ甘さを知らないのか。 (大人の飲み物だ) 大人に、一人前の人間として扱われる。ギアッチョには初めてのことだった。それが嬉しくて、口元がつい緩んでしまう。 「……ところでギアッチョ」 「ん」 「君はどうして働きたいんだ?」 リゾットにそう聞かれて、ギアッチョは背筋を伸ばした。 「……オレ、生きていかなきゃならねーんだ」 「……………………」 「親を捨てて、自分で生きてかなきゃなんねーんだ」 ギアッチョの顔は真剣だった。だがこういうことは、この年頃の子供にはよくあることだ。リゾットは表情を変えずに質問を続けた。 「……家には帰らないのか?」 「んー……。オレ、学校いきてーんだよ」 「…………?」 年齢は聞いていないが、見たところ十歳前後の少年だ。当然、義務教育を受けている最中だろう。学校に行きたくない、と言う子供ならいるだろうが、学校に行きたいと言う少年をリゾットはこれまでに見たことがない。 ギアッチョは両手でマグカップを持ち、湯気の立つ表面を覗き込んでつぶやいた。 「親がよォ、うちは貧乏だから働けって言うんだよなァ〜。どうせアタマ悪いんだから学校なんか行っても意味ねえ、教科書買う金もねーんだ、オメーに掛ける金はうちにはねーんだってよォ」 「…………………………」 「けど、アイツらそんなこと言ってるくせに、働くとかしねーんだ。オレだけ働かせて、オレが稼いできた金で酒飲んだりしててよー。それって納得いくかぁ? オレは全然納得いかねー」 「……それで、家出を?」 「そう。オレが稼いだ金であんなクズ生かしておくのはまっぴらだぜ。オレは自分で稼いで、それで学校も行って、いろんな納得いかねーことを勉強してーんだ」 ギアッチョの目はまっすぐだった。こんなに素直でまっとうな若者が社会に出る手助けをするのが、大人の役目なんじゃないだろうか。少なくとも、若い好奇心と学習欲を潰したり、阻害したりするのは、人間として間違っている。 「そうか」 「そんなシケた顔すんじゃねーよ。こんな子供はいくらだっているぜー? 同情されんのは嫌いだ」 顔をしかめて、ギアッチョは不満そうにリゾットを睨み上げた。この少年には立派な、一人の人間としての自尊心がある。そう思うとリゾットは何だか嬉しいような寂しいようなしみじみとした気持ちになった。 「ああ、同情はしない。ただ、アルバイトの事情を知ることは、採用に関係することだからな」 「面接か? オレ、子供なのに、面接してくれんのか?」 「ああ、すでに面接は始まっている」 「やめろよォ! やんなら最初からそう言えよなあ!」 ギアッチョは慌てて背筋を伸ばし、いそいそとマグカップを机の上に置いた。今更しおらしい態度を作っても仕方ないのだが、その子供らしい動作と悪びれない態度に、リゾットは思わず微笑んだ。 「もし君を雇うなら、嘘のない本音を聞いておいたほうが後々のためだしな」 「んー……。じゃあ、オレもほんとのことだけ言うぜ。実はあんまり自信はねーんだ。さっきアンタが言ったように、大人の台所はオレには大きすぎるしよォ」 ギアッチョは胸を張ってこう言った。自分に不利な発言でも堂々と言ってしまうのは、子供だからか。それともそれだけの覚悟があるということか。 「うちは新しく店を始めるところで、正直言って金銭的な余裕はない。給料も安いし、キッチンに入ることのできない子供は雇えない」 「そうだろうな。けど、それはどこでも同じなんだ。背が小さくても入れる仕事場なんてあんまりない。……子供でも雇ってくれるような仕事は、ギャングのヤバい仕事だとかだよなァ」 「……………………」 リゾットは口をつぐんだ。表向きは分からないようにナリを潜めているが、このネアポリスの街を裏で支配しているのはギャングだ。奴らは子供を使って麻薬を売りさばいたり、警察の捜査から逃げ回ったりしている。この街に住んでいれば、そういう暗黒面も垣間見ることが稀にある。 「けど、オレ、そういうのやりたくねーんだ。せっかく学校に行って真面目に勉強するのによォ、警察が来たり逮捕されたりしちゃあ台無しじゃねーか。金が手に入れば仕事は何でも良い、ってのはよォ、オレの理屈で言えば『ナシ』なんだよなァ」 「それでなぜ、カフェのコックを選んだんだ?」 「オレ、家でクソ親どものエサ作ってやってるんだけどよぉ、下手なモン作るとすげー殴られるんだ。だからなんとかうめーモン作れるようにって頑張って、それなりに腕はいいんだぜー」 そう言ってニヤリと笑うギアッチョの顔には、経験と実力に裏打ちされた自信が感じられた。 「そうか」 「けど、それをあのクソどものために振るってやるのもムカつくじゃねーか。アイツらの為じゃなく、誰か他の奴らを喜ばせるために料理を作りてーって思ったんだよな、オレは」 「志望動機もちゃんとある、というわけか」 「シボードーキってなんだァ?」 「……それはお前が学校へ行ったら、先生が教えてくれるだろう」 そう言いながら、リゾットは空になったマグカップを置いた。ギアッチョに向き合い、まじまじとその姿を見つめる。 「ギアッチョ、年はいくつだ?」 「十三歳」 「学校では何を勉強したい?」 「全部。納得いかねーことを納得いくようにしてえ。変な言葉の意味とかよー、なんで電話で声が遠くまで通じるのかとかよー、なんで水を冷やすと氷になるのかとかよー、そーゆーの全然納得いかねーからなァ!」 ギアッチョの口調は強い。リゾットは静かにうなずいて立ち上がった。 「では、最後にテストだ。今からお前の得意料理を作って、オレに食べさせてくれないか?」 「おう! 何がいい? 何でもできるぜ。パスタでもピッツァでも、それこそリゾットだって作ってやるぜー。アンタと同じ名前だしなァ」 そう言ってケラケラ笑うと、ギアッチョはぴょんとイスから飛び降りた。ようやく設備が整ったばかりのキッチンに飛び込み、そうかと思うと急に戻ってきて、そこらに置いてあるイスを抱えて中に運び込んだ。 (もしアイツを雇うとしたら、しばらくの間は踏み台が必要だな) リゾットはフッと笑みを浮かべると、ギアッチョの働きぶりを見るために自分もキッチンへと入っていった。 【To Be Continued...】 |
| 既刊「cafe・アンチーカ」より第一章を抜粋。一巡後の世界でリゾットが暗殺ではなくカフェ経営をしていたら……というパラレルでした。 暗チが幸せになる方法をずっと考えてて、カフェ経営ってのはいいなぁとツイッターで話が盛り上がりまして、バリスタリゾットさんがかっこいいとか、ギアッチョは料理がうまそうだとかいろいろ妄想が膨らんだ結果がこれだよ! ちなみに他のメンバーはカフェの常連客ということになってます。そちらは同人誌のほうでお楽しみ下さい。 またこの設定でいろいろ書くことになるかも知れません。一巡後は夢がいっぱい! ちなみにそのときのお友達が、バリスタリゾットさんのbotを作ってくれたので良かったらフォローして下さいv →バリスタリゾットbot |
| By明日狩り 2013/01/06 |