熱帯夜




















 ゴドーを事務所に迎えてから、5ヶ月が経とうとしている。
 初めはただの相談役として招き入れたはずのその存在に、気付けば心を奪われていた。
 少しずつ、互いの中に踏み込んでいき、気付けば一緒にいる時間が自然と増えていた。

 今ではゴドーの日常生活の面倒まで、見るようになっている。見えているとはいってもやはり不自由なゴドーの体を気遣って、成歩堂はずっとゴドーのそばを離れようとしなかった。


 週末は、ゴドーの部屋で過ごす。炊事、洗濯、掃除がその目的ということになっていたが、いつしか一緒にいることが心地よくなっていたのは、成歩堂もゴドーも同じだったのだろう。
 一緒に食事をして、くつろいだ時間を過ごし、風呂に入って、一緒に寝る。最初の頃は別の部屋に客布団を敷いたり、めんどくさがって成歩堂がリビングのソファで寝たりしていたが、近頃ではゴドーの寝室で一緒に寝るようになった。

 ゴドーのベッドの下に客布団を敷いて、成歩堂がそこに寝る。まるで小学生の「お泊まり会」のような雰囲気がちょっと面白くて、成歩堂はこのスタイルが気に入っていた。

「おやすみなさい」
「ああ」

 成歩堂は蛍光灯の紐を二回引いて、常夜灯に切り替えた。
 普段自宅では真っ暗にして寝るのが習慣だったが、ゴドーの部屋では常夜灯をつけたままにしておく。
 ……いざというときのため、というつもりだ。

 真夜中に「いざということ」があったためしなどないのだが、ゴドーのそばにいるときはできるだけ万全の用意を整えておきたいと、成歩堂は考えている。

(ゴドーさんって全然そんな風に見えないけど、本当は体が弱いしなぁ)
 どんな小さな異変にも気付き、どんな小さな不都合にも手を差し伸べたいと、いつも思っていた。

 ゴドーがいなくなる。
 その可能性は常に否定できなかった。ゴドーは視力も弱く、体も見た目以上に弱い。大切なものも、健康な体さえ失ったゴドーの支えになりたいと思った時、成歩堂はもし自分にできることがあれば全力でしよう、と心に決めた。
 だからいつでも手を貸せるようにと、ずっと心がけている。


(……僕に、何かできてるのかな)
 常夜灯に照らされたオレンジ色の天井を眺めながら、成歩堂はぼんやりと考えていた。
 ゴドーのそばにいて、ゴドーの役に立ちたいと思っている気持ちに、嘘はない。その上、個人的に、もっと言えば感情的に、ゴドーが好きだという気持ちもある。けれどそのあたりの問題になると、成歩堂の眉間にしわがよってしまうのだった。

(ちいちゃん、御剣、それにゴドーさん……。大好きなんだ、みんな)

 恋心、というものを同時に三つも持っていていいのか。
 そういうのを世間では「浮気」とか「フタマタ」(この場合フタマタどころではなく、ミツマタとでも言うのだろうか)とか呼んで、あまり良いこととは考えられていない。
 それでも自分の気持ちを正直に見つめると、いつも答えは同じだった。

(本当に、大好きなんだ……胸が痛いくらいに)

 ちなみとは大学の半年間だけの熱い交際だったが、その正体があやめという女性であったことを知ったのは、つい半年前の裁判でのことだった。自らの手で真相を暴きだし、あの半年間の思い出が嘘ではなかったことを知り、成歩堂はちーちゃん……あやめに対する熱い思いを再び胸に抱くようになった。

 もっともあやめは、執行猶予を修験者として葉桜院で過ごすと決めたので、もうほとんど会うことはない。彼女が望まない限り、敷いてこちらから手を出して惑わせるようなまねはしない、と成歩堂も決めている。

 お互いに、お互いを愛しく思っている。
 けれどあやめにはあやめの、成歩堂には成歩堂の考えがあり、お互いのためにも「もう会わない」という結論に達していた。そのことに後悔はない。


 それでも成歩堂のそばにはゴドーがいて、さらには御剣もいる。
 悩みどころだった。





 リビングの時計が、小さな鈴の音を鳴らす。午前一時だ。

 隣のベッドの上では、ゴドーが寝ている。
 一段低いところに寝ている成歩堂からその様子は見えないが、静かな呼吸が聞こえているから、きっともう眠っているのだろう。
 夏掛けの薄いタオルケットの下で、成歩堂は身じろぎした。

 ゴドーのそばにいてあげたい、という気持ちは、同情でもあり、愛情でもあり、敬意でもあり、そしてもちろん恋心でもある。それにゴドー自身も成歩堂がそばにいることで立ち直っている……ような気もする。
(自信過剰かもしれないけど)
 そばにいて迷惑だ、と言われたことは、ない。もう部屋には来るなと言われたことはあったが、それは多分嘘だ。

 ゴドーの存在には、胸が疼く。
 そばにいて、声を聞いて、体に触れたい。
 大好きなのだ。

 けれど、同じ気持ちにさせられるもうひとつの存在がある。
 御剣の表情、声、その指先、うなじ。
 同じくらい、強い衝動がある


「サイアクだ……」
 いつもここまで考えて、自己嫌悪に陥るのだった。純粋な気持ちが二つ重なると不純になってしまうのは、どうしてなのだろう?

(純粋×純粋=すごく純粋、になればいいのに)

 不毛な計算式を頭に思い浮かべてみても、やっぱり純粋×純粋=不純、でしかなかった。

「純粋かける純粋、イコール…………」

「何の計算だい?」
「うわっ」
 独り言に返事をされて、成歩堂は思わず声を上げた。見ると、ゴドーがベッドの上からこちらを覗き見ている。……ゴーグルは外したままなので、見えてはいないのだろうが。

「お、起きてたんですか?」
「ああ、今夜はちょいと暑くてな」
「クーラー……かけなおしますね」
 おやすみタイマーでとっくの昔に切れたクーラーを再びつける。

 仰向けに寝転ぶ成歩堂に、ゴドーが尋ねた。
「なあ、何を考えていたんだ?」
「えーと……自分のこととか、ですよ」
「純粋がどうとか、って奴だな」
「ええーと……(聞かれてたよ。恥ずかしすぎる……)」

「なあ」
 ゴドーが身を乗り出してきた。ベッドから半分落ちかけたような体勢で、見えない成歩堂に手を差し伸べる。
「はい?」
 いつもの習慣でその手を握って、体を起こした。
(ゴーグルを外したゴドーには、なるべく手で触れるようにしている。肌の感触がゴドーを安心させるはずだ、と成歩堂は考えていた)

「まるほどう、アンタは……いったい何を考えてるんだ?」

「………………………………何って……?」

 唐突なその問いは、単純な疑問とも、遠まわしな非難とも取れた。

「たとえばひとつ、訊いていいか?」
「ええ」

「アンタ、御剣のボウヤのこと、どう思ってる」

「!!」

 まさか、ゴドーの口からそんなことを訊かれるとは思っていなかった。
 今の今までそのことを考えていただけに、成歩堂は激しく動揺する。

 ゴーグルを外してはいるが、きっとゴドーには成歩堂の表情が目に見るように分かっているだろう。

「この間、ボウヤから電話があっただろう」
「ええと、いつだろう……」
「いつでもいいさ。アンタの顔、アンタの声……よっぽどあの赤いヒラヒラのボウヤのことが好きらしいな」

「それは………………」

 成歩堂は口ごもる。
 否定することはできなかった。
 けれど他ならぬゴドーの前で、肯定することもできない。

「………………僕にも……よく分かりません」

 それだけ言うのがやっとだった。
 ゴドーは困ったようにクッと笑う。

「そうか…………そうかもな。オレだって、わからねぇ」
(アンタと、チヒロと……オレはいったい何が欲しいんだろうな?)



 成歩堂が欲しい、と思う気持ちは、ゴドーの中でずっと続いていた。

 何度かの法廷バトルのさなかに。
 「うちの事務所に来てくれませんか」といわれた日に。
 毎週末、洗濯だの掃除だのと世話を焼いてもらううちに。。
 ……ゴドーの中で、成歩堂という存在は大きくなる一方だった。

 けれど、その気持ちが正しくは何なのか。
(アンタの中に、チヒロの面影を見ているだけかも知れねぇ。……あるいはただ、今後生きていくための居場所が欲しいだけなのかもな)
 成歩堂が欲しい、と思うその気持ちには、あまりに不純なところが多いような気がしていた。

 成歩堂に感謝している。間違った道から救い上げてくれたことに、そして今、生きる道を教えてくれたことに。
 そして成歩堂に、きっと恋している。喜んだり悲しんだり、いろいろな表情を見せてくれる、からかい甲斐のあるコネコちゃんに。



 その二つの純粋な思いは、掛け合わせたら何になるのだろう?



「なあ、まるほどう。……純粋かける純粋、イコール、何になるんだい?」
「…………恥ずかしいなぁ」
「アンタが言ったんだぜ?」
「……ぼくにも、答えは分かりません」
「そうだな……オレにもわからねえ……」

 手を繋いだまま、二人は黙り込んだ。

 真夏の熱帯夜はじっとりと湿っぽく、繋いだ手のひらはすぐに汗ばんだ。
 それでも手を離すことなく、重ねたまま、オレンジ色に照らされた天井を仰ぎ見ている。


「成歩堂」

「はい」

 珍しく、成歩堂と呼ばれる。聞き違いかと思って顔を向けると、ゴドーがこちらを見下ろしていた。

「オレは、多分、アンタが好きだぜ」

「僕も、多分、ゴドーさんが大好きです」

「多分、な」

「多分、ね」



 それでいい、と2人は思う。
 きっとたくさん考えて出した「多分」は、どんな言葉よりも純情だ。



 そしてどちらからともなく、目をあわせ。

 顔を寄せて。

 ベッドの上と下で、唇を重ねた。












 初めはなんとなく、次第に意地のように。
 二人は、繋いだ手を離そうとしなかった。

「ん…………っ……ゴドーさ…………」
「ココか?」
「あ、そ……やだ…………」

 成歩堂の胸に舌を這わせ、空いた方の手は腰のラインをなぞって、ゴドーは湿った息を吐いた。

 体の下に組み敷いた、成歩堂の存在を確かめる。
 指で触れると、体をよじって声を出すのが、嬉しかった。
「あっ」
「まるほどう……」

 そこにいるんだな、と思う。

 ゴドーの右手と、成歩堂の左手がしっかりと結ばれている。指と指を絡め合い、力強く繋いだままで、お互いの体温を貪りあった。

「あ……あっ……」
「ココ、いいか?」
「そ、あ、そこ……や…………だ………………」

 下肢をまさぐられ、成歩堂は顔を赤らめる。
 開かされた両脚の中心を指で探られ、その感触に思わず腰を引いた。が、逃げ出したい気持ちをぐっと堪える。

 もっと深く、もっと強く、ゴドーと繋がってみたいと思った。
 これまでずっと迷い続けて、不本意な形でしかそうすることができなかったから。

 本当にしたいと思うことを、したい。

「ゴドーさん…………」
「嫌か」
「………………イイ……で……す…………っ」
「クッ…………」

 ゴドーの指が、内部に侵入してくる。ほとんど未知のその感覚に少し怯えたが、繋いだ手の心強さにすべてを委ねる。

 体の中をまさぐられて、体温と共に感情も高まっていく。

「んっ……ゴドーさ…………」

 自由になる手を下へと伸ばすと、ゴドー自身もまた、熱く強張っていた。

「クッ……イタズラな手だぜ……」
「触っても、いいですか……?」
「優しくしてくれよ、まるほどう?」

 熱に浮かされながら、ゴドーの声が愛しくて成歩堂はくすくす笑った。
 手を動かして、愛しい熱を愛撫する。

 手の中に息づくものを感じて、胸がぎゅっと締め付けられるような気がした。自己嫌悪とも後悔とも違う、嬉しい痛みだ。


「挿れても……いいか……?」

 耳元に熱っぽくささやかれる言葉だけでも、意識が飛びそうになる。
 これ以上刺激されたら壊れるんじゃないかと思うほど体が熱く、成歩堂は唇を噛んだ。

「ダメって言ったら?」

「言えるのかい?」

「………………ずるいな、ゴドーさん」

 ここまできて、そんなことが言えるわけがない。
 成歩堂の体は、ゴドーを欲しがって奥から脈打っていた。

(僕も、こんな風になるんだ……)
 男の体で27年生きてきて、こんな風に体の芯が疼いたり、欲しがったりすることがあるなんて、想像もしたことがなかった。

「ゴドーさん…………」

 名前を呼び、体を抱き寄せる。繋いだ手に力を込めて握った。


「………………来て下さい」

「……クッ、エロいな」

「そういう言い方ってないと思いますけど」

 ゴドーときたら本気なのか、ふざけているのか分からない。
 成歩堂は苦笑して目を閉じた。


(まったく……度胸の据わったコネコだぜ……)
 成歩堂が今までどんな人生を歩んできたかは、知らない。
 が、少なくとも男に「こんなこと」をされたことは、あれ以外ないはずだ。

 それはゴドーも同じで、男に「こんなこと」をしたことは、あれ以外ない。……最後の裁判前夜、ちなみの罠にはまって成歩堂の体を抱いたあの夜だけが、お互いの初体験だった。

 それなのに、成歩堂はずいぶん余裕があるらしい。
 熱っぽく目を潤ませながら「来て下さい」なんてセリフは、なかなか言えるものではないだろう。場慣れしているわけでもないのだから、やはり度胸が据わっているとしか思えない。

(クッ……情けねぇ……)

 実のところ、ゴドーのほうがよっぽど照れているのだ。

 成歩堂を意識し続け、欲しいと思い続けた。
 ようやくその願いが叶おうとしている今、ゴドーはまるで未経験の若造のような、甘酸っぱい戸惑いを感じていた。

 成歩堂と、体を繋ぐ。

 柄にもなく、照れていた。


「クッ……」

 ゴーグルを着けていないので、いったい今どんな目で見られているのか知る術がない。
(参ったぜ……コネコちゃん……)

 ゴドーは深く息を吸うと、長い間繋いでいだ手をとうとう離した。

「あっ」
 成歩堂が小さく声を上げ、その汗ばんだ手でゴドーにしがみつく。

 両脚を開かせ、自らを押し当てた。

(何をすべきかは、知り尽くしてるのにな……クッ、笑えるぜ)

 そのまま腰を押し付け、強く力を込めた。


「あ、あ、あっ」

 少しずつ、成歩堂に侵入していく。

 耐え切れなくなった声が、途切れ途切れに耳に届いた。

「んっ……きついぜ……アンタ」
「あ、あ、あ…………」

 成歩堂の体が慣れるのを待って、始めはゆっくり、次第に大きく動く。
 高まる熱のせいか、昂ぶる感情のせいか、成歩堂はほとんど悲鳴を上げなかった。

 代わりに、甘い声で大きく鳴く。
「あ、あっゴドーさん……ゴドーさぁんっ」

「イイコだ、まるほどう……」

「あ、イイ…………は、あ……ああっ」

 両腕をしっかりとゴドーの首筋に絡め、体を曲げて自ら腰を押し付けてくる。
 蕩けそうな表情の成歩堂に、ゴドーはこみ上げる疼きを飲み込んだ。

「クッ……たまんねぇぜ…………」

「あ、あっ……ん…………んはぁ…………」

 何度も、何度も、中で擦り、腕で絡めて、唇で繋ぐ。

 クーラーをつけているはずの部屋も、二人の体の熱にはほとんど意味がない。

 熱く、熱く、融けあい、心まで焦がれて。




「あ、あ、あああっ」

「ん…………っ」




 愛しさと昂ぶりを互いの体に放って、それでも足りずに、また挿入れて。


 長く湿った熱帯夜は、まるで永遠だった。






























「人間の体って、変な形ですね」

 体力の限界まで求め合い、欲望のままに貪りあって、先にばてたのはゴドーの方だった。
 年が若いからか、底力があるのか、成歩堂は案外平気そうな顔で、ゴドーの隣に寝そべっている。

「……余裕綽々だな、コネコちゃん」
「そうでもないですよ。カラダがギシギシしてます」

 言葉ではそう言いながらも、口調はけろっとしている。

(全然余裕じゃねえか……)
 ゴドーは口をつぐんで、枕に顎を乗せた。

 成歩堂はゴドーの右手を取り、おもちゃのようにいじくっている。

「指って、たくさんあるんだなぁ」
「そりゃ、5本はあるだろう」
「でも先端がこんなに分かれてるなんて、なんか、変ですね」
「変なもんか」
「変ですよ。一本ずつ爪もちゃんとついてるし」
「ついてるだろう」
「変なの」

 意味の分からないことを言いながら、指をつまんだり、折り曲げたり、時々口に咥えたりしている。

(おかしなコネコだぜ……)

 けれど、ゴドーはそんな成歩堂になんとなく安心する。

 成歩堂の声は近頃聞いたことがないほど無防備で、子供っぽかった。隠すことも、悩むことも今はないのだろう。無邪気にゴドーの手の形を観察している。

 心を許しているんだな、と思った。


「まるほどう……」
「はい?」

 頭をなでてやると、嬉しそうな声が耳に届く。

「ふふ……」
「あんだけもみくちゃにしたのに、まだトガってるんだな。アンタの髪」
「固いんですよねー、僕の髪」

 そして手を繋ぐ。

 手のひらにも、言葉にも、壁はなかった。

 ただ直接、皮膚の感覚で、声で、体温で、成歩堂とゴドーは繋がる。



 もう一度、唇を重ねて。


「忘れたくないな、この感じ」

「忘れたら、またしてやるさ」


 ゴドーは腕の中にしっかりと、成歩堂を抱きしめた。














<END>


























 By明日狩り  2004/7/29



※このサイトのSSは、「成歩堂日記」と「小説全般」と「裏ページ」では別々の世界観・設定と考えてください。SSはおおよそ同じ設定で書いていますが、たまに違っていることがあります。
ひとつずつ別のものだと思って読んでくださると……助かります。