目覚めたその日の朝は、今まで迎えたどんな朝よりも暗かった。




















驚愕の逆転














「何だと………………?」
 言葉を失うオレの耳に、落胆したため息が聞こえる。
 いつもの習慣でそっちに目を向けてはいるが、白く濁った世界には何にも見えちゃいねえ。
 ただ、聞き覚えのある声だけが、オレに語りかけてくる。

「5年間、眠っていたんぢゃよ」
「5年…………」
 それはあまりにも衝撃的な事実だった。
 オレは何度も目を擦り、この薄汚れた視界が何とか晴れないものかと思った。が、
「やめるんぢゃ。ますます目を傷めることになる」
 丸っこい手に止められて、オレは力なく肩を落とした。

「それで…………アイツは……………………」
「…………………………」
 その話になると、星影のジイさんもいっそう口が重くなる。
「さっき、言ってたよな」
「う…………うむ…………その、チミの恋人は……」

「アイツは…………死んだんだって………………?」

 それを受け入れることは、5年間の空白を埋めるより難しかった。

 俺が眠りに付いて、3年。
 アイツの命は、黒い企みに潰されて消えたそうだ。ただの、一撃で。

 その犯人も、もう有罪判決を受けたという。同じ弁護士の手によって。


「…………憎むべき敵も、守るべき人も、どこにもねえ……」
 小さく震えるオレにかける言葉も見つからず、星影のジイさんはすまなそうに部屋を出て行った。

 いまさら目覚めたって、ここにあるのは何もかもが失われた世界だ。
 いったいオレに、何ができるってんだ?
 マトモなカラダさえ失ったオレに、生きる価値なんてどこにある?


 虚ろな時間が過ぎて行った。
 視力を補う特別製のゴーグルを付けられ、どうにか世界が見えるようになっても、何の興味も起こらなかった。

 輪郭だけが浮かび上がる世界は、ただそこが無意味な場所であるということをオレに思い知らせるだけだった。

「………………何もかも…………失くしちまった」

 オレは自分を責め続けた。
 何もせずにのうのうと寝ていた自分を、許せなかった。
 その間に永遠に奪われた、アイツのことを忘れられなかった。
 怒りの矛先は、自分にしかなかった。ただ死ぬことしか、頭になかった。

 過去の資料を読み漁ったのは、そこにアイツがいるような気がしていたからだ。

 暗闇の中、襲い来る敵に倒れるアイツの姿を思っては、力任せに拳を握った。
 オレの手のひらは、自分の爪あとで傷だらけになっていた。


 そうしているうちに、オレは、その名前に気付いた。

「…………………………」

 アイツが死んだとき、一番そばにいたはずの人物。
 けれど、アイツが死ぬのをむざむざと見過ごした奴。

 こいつさえしっかりしていれば、アイツは死ななくてすんだはずだった。

「そうか…………アンタか…………」

 オレはまっすぐ前を見詰めた。
 初めて、前に向かって歩ける気がした。

 病院のベッドを降り、スーツに身を固めて、オレは歩き出した。
 憎むべきオレの敵。
 アンタが本物かどうか、オレが裁いてやる。
 ……俺の手で。









**********


 某月某日、某時刻。

 その日法廷では大変な騒ぎが巻き起こっていた。

「静かに! 静かに!」
 裁判長の木槌が高らかに鳴り響くが、ざわめく法廷はなかなか静まらない。

 その渦中にあって、いかついゴーグルを着けた男は優雅にコーヒーを傾けた。
「クッ…………」

「何ですか、あなたは! 成歩堂君、これはいったいどういうことか説明してください!」
「えええっ! 僕ですか? …………あの、僕にもいったい、何が何だか……」

 おろおろする成歩堂にコーヒーカップを突きつけ、男は言い放つ。
「まるほどう、さっさとパーティーをおっぱじめようぜ」

「あの、あなたはいったい何なんですか…………?」
 額に冷や汗をかいて脱力する成歩堂に、男はにやりと笑ってこう答えた。

「クッ……オレの名はゴドー。完全無敗、伝説の弁護士、だぜ」
「弁護士……ですか。で、それが何で僕の弁護士席にいるんですか?」
「コーヒーを飲むときに避けては通れねえもの……それが何だか、アンタに分かるかい?」
「え、ええと…………ミルクと砂糖……?」
「クッ、お子様じゃねえんだ。そんなものはオレにはいらねえ。必要なのは、コーヒーカップだけ、だぜ」
「そうですか…………って、答えになってませんよ!」

 自分の隣に勝手に陣取るゴドーに、成歩堂はすっかりトホホモードだ。

 しかしゴドーの視界に、成歩堂はいない。

(…………………………ここからがショーの始まりだぜ)

 ゴドーはまっすぐ前を見つめた。
 弁護士席の真正面。
 そこにいる検事は、腕組みしたまま眉間にしわを寄せている。

 このバカ騒ぎにたいそうメイワクしている、とでも言いたげな顔だ。

「クッ、他人面したってダメだぜ。検事さんよ」
「…………どういうことだろうか」
 赤いスーツに身を包んだ検事は、話にならない、というようにため息を吐いた。

「私は早く審理を進めたいだけなのだが」
「おっと、そうはいかねえ。オレがアンタを裁く法廷、勝手に進められちゃ困るぜ」
「何…………?」
 思わぬ言葉に、検事の顔つきが変わる。成歩堂も驚いて声を上げた。

「ちょ、何でアナタが御剣を裁くんですか!?」
「クッ、ギザギザの弁護士は黙ってな。オレに用があるのは、あのヒラヒラの検事さんだけ、だぜ」
 そう言うとゴドーは、コーヒーカップを机にたたきつけた。
 ドン、と大きな音が響く。

「御剣怜侍……オレはアンタを認めねえぜ」
「…………唐突千万な」
 突然の宣戦布告に、さすがの御剣も動揺が隠せない。人から恨まれることは慣れているが、法廷で見知らぬ仮面男に憎まれる覚えはなかった。

「なぜ、私を憎む」
 負けじとゴドーを睨み返して、御剣は記憶をたどった。
 しかし、やはり身に覚えがない。

 ゴドーはクッと笑ってコーヒーカップを突きつけた。
「アンタが守れなかったのさ……アイツを」
「アイツ?」
「あの時、アイツの一番近くにいたのが、アンタだった。けれどアンタは、アイツを見殺しにした……」
 ゴドーは遠い目で宙を見つめた。そのゴーグルには昔の恋人の姿が映っているのだろうか。

「しかし私には何のことだか分からない」
 痺れを切らした御剣がいらだたしげに声を上げたそのとき、突然、法廷に鋭い声が響き渡った。



「異議あり!!!!」




「オマエは…………!」





 ゴドーがその名を呼ぶより先に、成歩堂がぱっと顔を上げた。
「千尋さん!」
「ちょっとセンパイ…………これはどういうことなんですか!?」
 グラマーな体を黒いスーツに包み、白いパンプスの音も高らかに、千尋が法廷に割って入る。つかつかと弁護士席に歩み寄ると、ゴドーの前に立ちはだかった。

「神乃木センパイ! 何やってるんですか!」
「クッ……コネコちゃんには関係ねえ。これは、オトコ同士の決着なんだぜ」
「意味のわかんないこと言って、私の弟子の法廷に乱入しないで下さい!」
「助けて千尋さ〜ん……この人いったい何なんですか……」
「私が知りたいわよもう……。センパイ、説明してください」

 美人にキッと睨まれて、ゴドーはクッとうめいた。

「2年前の事件……。オレが寝ている間に、アイツは殺された」
「2年前……?」
 一瞬の沈黙の後、成歩堂と千尋は同時に叫んだ。

「クリスマスのひょうたん湖殺人事件……!」
「クッ、そうさ。そこであのボウヤは1人のオトコを見殺しにした」
 ゴドーに睨まれて、御剣は何かを思い出した顔になる。

「生倉…………とかいう弁護士のことか?」
「ご名答」

 その名前を耳にして、ゴドーの表情がフッと陰る。

「生倉センパイ……?」
 その名前は千尋もよく知っていた。以前星影法律事務所でセンパイだった人だ。2年前のクリスマスにひょうたん湖で殺害されたことは、記憶に新しい。

 けれどそれがなぜ、御剣のせいなのか。

「でも真犯人は捕まったんですよ? あれは御剣のせいじゃなかった……」
 真剣な表情で訴える成歩堂をクッと笑い飛ばして、ゴドーはコーヒーカップの闇をあおった。

「真犯人に恨まれるようなことをしながら、のうのうと生きていたボウヤがいけないのさ。そいつに巻き込まれた生倉センパイ……。
 あの夜、生倉センパイの一番そばにいたのは、ボウヤだった。でも、アンタはアイツを守れなかった」

「それは……仕方ない。私が行ったときには彼はすでに殺されていたはずだ」
「言い訳は見苦しいぜ。アンタが巻き込んだんだ。オレの……」

 ゴドーはそこで口をつぐんだ。
 闇色のコーヒーをたたえるカップの面をじっと見つめ、顔を上げて。

 まっすぐ御剣を睨みつけた。





「オレの大切な、恋人をな!」








 静まり返った法廷に、ゴドーの声がこだまする。

 誰一人、声を上げるものはない。

(こ、恋人だと………………!)
 混乱する御剣の脳裏に、法廷記録で見た生倉の顔がぼんやりと甦る。
 ほとんど見たことも、会ったことすらもない被害者だったが、気難しそうな中年オトコの写真を覚えている。

 どう考えても、繋がらない。

「あの……千尋さん…………。あのゴドーさんって人と生倉とどういう関係が……」
「知らないわよ! ていうか思い出したくもないわよ!」
 恐る恐る切り出す成歩堂を一喝して、千尋はゴドーに指を突きつけた。

「異議あり! 生倉センパイは神乃木センパイの恋人なんかじゃないでしょう!」
「クッ、いまさら何を言ってるんだ? 分からず屋のコネコちゃんだぜ」
「だって生倉センパイ、いっつも嫌がってたじゃないですか!」
「照れ屋のオトコの気持ちが分からないから、アンタは分からず屋のコネコちゃんだってのさ」
「もー完っ全にアタマきた!! 5年も寝てたのに、バカは死ななきゃ治らないんですね! もう帰りますよセンパイ!」

 千尋は鬼のような形相でゴドーの腕をつかみ、力任せに引きずって出口へと向かう。
「オトコとオトコの決着に、コネコが邪魔をするモンじゃねえぜ?」
「うるさい! 私のカワイイ弟子の仕事を邪魔しないで下さい!」
「怖い顔するとどんどん老けてっちゃうぜ?」
「黙れ神乃木荘龍!」

(うわぁ…………)
 完全にぶち切れた千尋の後姿を眺めながら、成歩堂は背筋が凍る思いだった。
 こんなに怖い思いをしたのは、初めてかもしれない。

 クッと笑うゴドーをずるずると引きずって、千尋が退廷する。
 後には、あっけに取られた法廷だけが残された。

「…………成歩堂」
「…………御剣」
「我々は、どうすればいいのだろうか」
「…………さあ、裁判長に聞いてみれば?」

 成歩堂と御剣が、途方に暮れた目で裁判長を見上げる。
「そ、そんな目で見つめないで下さいよ」
 裁判長はあわてふためき、いつもの習慣で木槌を振り下ろした。

 カツン、と冴えない音がする。

「えー…………それでは、改めて審理を始めますか……?」
「ぎ、疑問形で聞かないで下さいよ」
 ワケの分からない闖入者のせいで、すっかりアタマが真っ白になっていた。

(今日の法廷、もうダメかもしれないな……)

 ピンチのときほどふてぶてしく笑え、と教えられてきたが、これが果たして「ピンチのとき」なのかどうか、それさえよく分からない。

 成歩堂も御剣も、裁判長も。見ている傍聴人も。

 ただぼんやりと、真っ白になったアタマでたたずむことしかできなかった。








 その夜。

「クッ…………とんだコネコちゃんが入っちまったぜ」
 ゴドー神乃木はコーヒーのアロマを楽しみながら、机の上の写真立てに目を向けた。
 愛しい恋人と一緒のひとときが、小さく切り取られて時を止めている。

 生倉雪夫。

 センパイだと思っていたその存在を、愛しく思い始めたのはいつからだっただろうか。

「そばにいれば……オレが守ってやれた……」
 もう、取り戻すことはできない。
 今の神乃木にできることはただひとつ。

「俺が裁いてやるぜ……御剣……怜侍…………!」

 くだらない師弟の争いに生倉を巻き込んだ、悪徳検事。
 自分がどんなことをしたのか、それを思い知らせるまでは。

「終わらねぇ…………DL6号事件も、アンタも、オレも、な……!」

 暗い闇の中に1人。
 ゴドーの復讐の炎が赤く燃え盛っていた。







<終われ>








人として最低だな!(私が) ゴドーさんの逆恨みがいかに理不尽だったかということがよく分かりますね。
 By明日狩り 2004/10/17