こんな人生が待っていたなんて、あの時の僕は思わなかった。

 ずっと、みんなと一緒にいられると思った。

 ずっと、やりたい仕事を続けていけると思った。



 ようやく僕は、

 人生の苦味……って奴を知ったらしい。







生きて行く日々











「お久しぶりです」
「ああ」

 それきり、会話は途切れる。
 半年振りくらいかな。たまにこうして会うけれど、別に話すことも特になくて。

 僕は、その沈黙もとりわけ気にすることなく、足元のグレープジュースを一本取った。
 ボトルを開けて、直接口にする。

 一連の動作、僕の服装、顔つき……あらゆるところを細かく観察されているのを感じる。
 けれどその視線さえも余裕で受け入れることが、今の僕にはできた。
 弁護士の頃にはなかなかできなかった、ふてぶてしい態度って奴が、今頃になってようやく身についてきたらしい。
 皮肉なもんだ。


 場末の冷えたロシア料理店なぞに来る奇特な客はそう多くなく、僕が勤めているレストラン「ボルハチ」はいつも開店休業みたいな有様だった。
 だからピアノの弾けないピアニストが騒音を演奏しても、勝手に休憩して来客と話をしても、誰も見咎めない。
 その背の高い客が異様なゴーグルを着けていても、誰も気にしない。

 居心地の良い店だった。


「まるほどう、アンタ、ずいぶんと貫禄が出てきたじゃねえか」
「え、太りました? おかしいなぁ、みぬきの料理を食べてたらそんなになるわけないんだけどな」
 みぬきも僕も、料理はあまり得意じゃない。
 一番のご馳走が近所のみそラーメンなんだから、食生活についてはあまり自慢できないな。

「ひょっとしたらコイツのせいですかね?」
 グレープジュースを掲げて見せると、ゴドーさんはクッと笑った。
「横に広がるばかりが貫禄じゃねえぜ。違う、そのツラさ」
 あごをしゃくって僕の顔を指す。
 ああ、なるほどね。最近よく言われます。

「僕だってもうパパですからね。新米ヅラはしてられません」
「クッ……そのふてぶてしさ、キライじゃないぜ」
「ははは……」

 ゴドーさんが笑う。
 僕も笑う。

 大人って、こういう風に笑うんだ。


「そのエガオも、板についてきたじゃねえか」
「そうですか。みぬき以外にはなかなかの不評っぷりですけどね」
 みぬきは優しい子で、僕のうそっぽい笑いにも素直に応えてくれる。ははは、と笑うと、ゴドーさんは思いのほか満足そうに頷いた。

 昔の僕とは全然違う笑顔。
 そりゃあ、いろんなものを失いすぎて、いろんなものを背負いすぎて。
 昔の僕を知る友人、知人は口をそろえて「なんでそんなになっちまったんだ?」と言う。
 「そんな風に……」と、今の僕を否定する。
 ま、しょうがないけどね。

 生きているんだから。
 昔のままではいられない、そんな人生を歩んでしまったんだから。
 ただただ信じたいものだけを信じていられた頃は、もう戻らない。

 孤独な人の味方になりたい。
 学級裁判のときの孤独な気持ちを、いつまでも忘れない。
 「発想を逆転させるの」
 「ピンチのときほどふてぶてしく笑いなさい」
 「依頼人の味方はあなただけなのよ?」
 受け継がれてきたたくさんの信念たち。
 それらはもう、使い道のないまま僕の心の中に眠っている。




「まるほどう」
 ゴドーさんが言った。

「?」

「アイしてるぜ」

 不意打ちにもほどがある。
 直球でそう言われると、ほんのちょっとだけ動揺した。
 それはゴドーさんにもわかるらしくて。

「クッ……しょせんアンタはまるほどう、さ」
「意味が分かりませんよ」

 完璧に演じているはずのピアニストの仮面も、ゴドーさんにはちゃんと外し方が分かっているらしい。

 暗い店内に、赤いゴーグルの光がぼんやりと灯っている。
 その奥から注がれる視線を感じて、僕は息を止めた。

 思い出したら、辛くなる。
 幸せだったあの日々の、幸せだった恋。
 みぬきのために、自分のために、たくさんの信念たちと共に封印したキモチ。

「かわいいぜ、まるほどう」
「いやだなぁ、やめてくださいよ」
 いつもの笑みでごまかそうとしたけれど、どうやら僕は失敗しているらしかった。

 きっと歪んでいる、僕のエガオ。
 その顔に、ゴドーさんが顔を寄せる。
 息のかかる距離。唇を重ねる角度にかしげた首。苦いコーヒーの香り。

 あと数センチ、というところで。
 ゴドーさんの人差し指が、僕の唇を封じる。
 まるで心の闇を封じるようなその指に、僕は息を呑んだ。

 キスは、しない。
 もう、体も重ねない。
 僕らはそう約束していたから、もう二度とゴドーさんには触れられない。
 それでもこうして、キスする気持ちだけでも味わいたくなるときがある。
 本当にキスするより、ずっと真剣で味わい深くて濃厚な感情が湧き上がる。

 大人にしかできない。これが僕らのエスプレッソ・キス。



「アンタの中に、たくさん見えるぜ」
「…………何がですか?」
「宝物、さ」
「……………………」
「まだキラキラしてやがる。入れ物は汚れたように見えても、アンタの目の奥の光はごまかせないぜ?」

 それだけで、僕には充分だった。
 過去に集めたたくさんの信念たちが、まだ僕の中にあること。
 ゴドーさんはたまに、こうやって僕が僕であることを確認してくれる。

 かけがえのない人。
 僕が変わってしまっても、変わらざるを得なくても、この人は僕が僕であることを知っている。
 そう、当の僕本人よりも。

「まだ、汚れきってませんか。案外長持ちするんですね」
「クッ……そいつは俺の台詞だぜ」
「え?」
 僕が首をかしげると、ゴドーさんはまた笑った。やけに機嫌が良い。

「汚れきった俺を、アンタは浄化した。あれだけ罪を犯した俺を、アンタは愛した。俺はどうしようもないものに成ったと思ったのに、アンタは俺を汚れ物だと思わなかった」
「…………………………」
「俺はもう、俺を責めない。汚れているとも思わねえ。だから、アンタもそう簡単に汚れるわけにはいかねえのさ。……人を否定できない人間には、自分も否定させない。ソイツが俺のルールだぜ」
「…………………………」
「今のアンタを、愛してる。かわいいぜ、まるほどう」
「……情けは人のためならず、ですか?」
「そういうこった。海老で鯛を釣っちゃったな?」

 クッと笑うゴドーさんの機嫌の良さ、その理由が僕にも分かった。
 この人、この状況になって、僕を救う立場にいることが嬉しいんだ。
 昔の僕が、ゴドーさんを助けることに情熱を燃やしたように。
 ゴドーさんは、誰かを救える自分が嬉しいんだ。

 僕がこの人にかけた情が、そっくりそのまま返って来る。
 弁護士バッヂを失った者同士、傷を舐めあうのも悪くない。手負いの獣みたいにね。


「ありがとうございます、ゴドーさん……」
「クッ、ちったぁ元気出しな。マジックコネコちゃんが泣いちゃうぜ?」
「ええ、本当に」
 その名前を聞いて、やっぱりと思う。
 僕が落ち込んでいるときに限って、ゴドーさんが来てくれる理由。どうやら僕の娘は、僕を元気付ける切り札を持っているらしい。
 やれやれ、早く父親らしくなりたいもんだな。




 うまく言えないけど。
 僕はうまくやってると思う。
 愛するみぬき、愛する事務所。
 少し離れているけれど、数え切れない友人たちもいる。
 変わったねと言われてもいい。変わらないねと言われてもいい。

 僕が僕であることは、ずっと変わらないから。
 それを知っている人が、いるから。







<END>







うへえ! うまく書けないよ! とりあえずゴドナル万歳! それだけは言える!
ゴドーさんはかつて多くを失い、それをまるほどうに癒されて生きてきた。だから今度はゴドーさんがまるほどうを理解してあげる番なんです! きっと多くの人に「成歩堂は変わった」とか「失望した」とか言われてるんでしょうけれど、ゴドーさんだけはそう言わない。変わらなければ生きていけないほどの喪失を味わったのは、ゴドーさんだけだから! まるほどうのことをたくさん、たくさん、理解してあげて欲しいです。精神的ナルゴドの時代もいいですが、これからは精神的にもゴドナルの時代がやってくるわけですよ。いやっほう! 強く儚いまるほどうの、唯一の心の弱点がゴドーさんだといい。すごくいい。(・∀・)イイ!!

でもねー、残念ながら弁護士バッヂを失ったまるほどうとゴドーさんはもうぇちできないんです。キスもできないんです。それはもう私の中で決まったことなので。いやもう切ない切ない! ゴドナル大好き! 新しいゴドナル時代の夜明けが来ましたよ!(もう意味わかんない)
 By明日狩り  2007/04/28