ラフ#03「狂気へのプロセス」     BY明日狩り


 静かに椅子に座っているその姿は、どんなに長い時間見つめていても微動だにしない。まるで人形のようなその人は、両手で自分の体を支えるように抱き、まっすぐよりわずかに下がった視線で何を見るともなく見ているようだった。きっと何も見てはいない。何かを見るということもない。見ることを拒否したのだから。
 両手は軽く、危ういバランスで体にひっかかっている。自分がいる場所より少し離れたところの床を見つめ続ける目は、見ているのではなく、そらしているのだ。見つめるべきは己の心、そして現実。けれどそこから目をそらした彼にもはや見るべき場所などなく、正面でもなく後ろでもなく横でもない、後ろ向きな前方斜め下という、ひどく抽象的な場所だけをガラス玉のような目に映すばかりだった。
 魂の抜けた体。しかしそれは軽くはない。何もかもを忘れて白痴のようになれれば、それがオビ=ワンの一番の幸せなのだろう。けれどオビ=ワンは狂うほどには弱くなかった。そしてこの困難と苦悩は、オビ=ワンを正気のままで生かしておくほど甘いものでもなかった。

「マスター」

 アナキンの声に、スイッチの入ったおもちゃのように顔を上げて、オビ=ワンはかすかに微笑んだ。このところそんな柔らかい表情など見たことがなかったので、つい胸の奥に喜びが湧き上がる。けれど、その微笑みが決してオビ=ワンの幸福な心から出るものではないことを、アナキンはすぐ思い知らされることになるだろう。

「アナキン」

 それは母のような声だった。あるいは、父のような。温かく、包容力のある、愛に富んだ呼びかけだった。だからアナキンは母親を見つけた迷子のような気持ちで、たたずむマスターに小走りに駆け寄ってその体を抱いた。ひざまずき、その膝に顔を埋める。頬をすり寄せると、頭を軽く優しく撫でてくれる。

「マスター」

 帰れる場所が見つかった、とアナキンは思った。ようやくオビ=ワンとうち解けることができたと思った。随分長いことすれ違ってきた。反抗した。傷つけた。拗ねた。甘えた。犯した。泣いた。怒鳴った。憎んだ。何度も繰り返したその果てに、ようやくこうして素直になれる日が来たのだ。

「マスター」

 呼びかけて、顔を見上げる。降り注ぐ春雨のような微笑みが、泣きたいくらいに優しかった。今なら、本当に守りたいのがあなただと言える。本当に好きだったのがあなただったと言える。ようやく伝えられるその気持ちを言葉にしようと、アナキンははやる気持ちを抑えて心の中を探った。
 ごめんなさい、僕はずっとあなたに甘えていたんです。
 あなたは僕がどんなにひどいこと言っても、きっと探し出して叱ってくれるって思ってたんだ。
 僕、あなたが絶対に僕のことを愛してくれてるって、知らないうちに信じてたんだ。
 だからあんなにひどいことだって言ったし、ひどいことだってしたんだ。
 でもね、マスター。
 僕はやっぱりあなたが好きだって、ちゃんと分かったんです。
 すごく遠回りしちゃったけど、今なら、今だからやっと言える。
 ねえマスター、僕の言うこと、ちゃんと聞いてくれるかな……。

 オビ=ワンはためらうアナキンに優しい視線を落とし、ゆるやかに頭を撫でている。焦る必要はなかった。今までずっとすれ違い続けてきた2人に、今更焦る理由などなかった。アナキンはゆっくりゆっくり自分の中を探り、言葉を選んだ。オビ=ワンはいつまでも頭を撫でていてくれる。その手の優しさに心から安心して、アナキンは気を抜けばまどろみそうになるほど安らかな気持ちで、時間をかけて言葉を探した。

「マスター」

 一言ではなかなか、言い表せない。それだけの苦労と苦痛を、2人は重ねてきたのだから。アナキンは言葉になりかけている気持ちを甘い菓子のように舌の上で転がしながら、何度もオビ=ワンを見上げた。オビ=ワンは同じ微笑をたたえて、じっと弟子に見入っていた。

 ふと、アナキンの瞳に影がよぎる。

「マスター」
「マスター」
「マスター」

 何度呼んでも、オビ=ワンは同じ微笑みを絶やさない。

「アナキン」

 返事をしてくれると、不安が一瞬だけかき消える。けれど唇には同じ微笑み。瞳には同じ愛情。

「マスター」
「アナキン」
「マスター」
「アナキン」

 繰り返し、繰り返し呼び合っても、どんなに言葉を交わしても、オビ=ワンの顔から愛情以外の表情が消えることはなかった。体を揺さぶり、激しく名前を呼んでも、オビ=ワンの唇からは微笑が剥がれない。きちんと愛情をたたえた目で見られているのに、優しさは偽りではないのに、アナキンに芽生えたいらだちは消せなかった。

「マスター!」
「アナキン」

 どんなに強く揺さぶっても、愛情以上の感情はオビ=ワンからは得られなかった。優しさと愛情の塊のようになったオビ=ワンをいくら揺さぶっても、叩いても、そこから叱咤やいらだちや怒声は生まれることはなかった。

 アナキンは歯がみし、オビ=ワンの頬を音高く打った。弾かれた顔をゆっくり戻したオビ=ワンは、少しだけ違った表情を見せた。が、それはアナキンの発作を許し受け入れた、愛情を含む微笑と何ら変わらぬ苦笑だった。アナキンは自分が頬を打たれたかのような衝撃を受け、ゆっくりとオビ=ワンの足下に崩れ落ちた。今度はいじめられて母に泣きつく子供のように、オビ=ワンの膝に顔を埋めた。

 オビ=ワンは、正確な意味では狂ってはいない。
 彼の精神は正常だった。記憶もはっきりしているし、現実もきちんと把握している。そこから狂気という形で逃避できるほど、彼の精神は脆くはなかった。歩いたり、食事を取ったり、風呂に入ったりという、日常生活は支障なくできた。もちろん会話もできる。一見何の問題もないように思われる。
 しかし、ある意味では彼は狂気していた。
 彼はもう2度と、何かを見ようとはしなかった。己の心、過去、現実、未来、それから我が弟子のことを。そこから執拗に視線をそらして、前でも後ろでも横でもない、後ろ向きな前方斜め下というひどく抽象的な場所だけを、その美しいブルーグリーンの球体に映していた。

 彼はもう2度と、ライトセーバーを取ろうとはしない。最愛の師が残した遺言を守ろうとはしない。ジェダイとしての誇りを遂げようとはしない。愛する弟子を導こうとはしない。ただ、目をそらしてそこに在るばかりだ。

 けれど、誰が彼を責められるだろう。弟子を理解するため、弟子を取り戻すため、弟子を守るため、心を砕いて全てをかけて生きてきた彼の困難は、言葉にならない。心も、体も、誇りも、道徳も、倫理も、愛も、貞操も、信じるものも、想い出も、トラウマも、聖域も、ありとあらゆるものを弟子に捧げ尽くして、挙げ句の果てに報われなかった人間がいったい何を見ればいいというのだ?
 彼は逃げなかった。消して逃げたりはしなかった。立ち向かい、むしろ彼の持てる全ての大切なものを弟子に与えた。何も、ひとかけらも残さずに与え尽くした。全ては徒労に終わった。彼の弟子は、戻っては来なかった。そんな彼のことを弱者と呼べるだろうか。卑怯者と呼べるだろうか。

 狂気する弱さも持てずに、最後に残された体と心を持って、オビ=ワンはただそこに在るだけのものとなった。体は殺さぬ限り滅びない。そして狂気できぬ限り、心もまたそこにある。オビ=ワンの心と体、そこにはただ純粋に弟子を愛おしく思う淡い気持ちだけが、染色された織物のように残されていた。

 アナキンは己を悔いた。甘えていただけの己の諸行を省みた。それがどれだけこの強情な人を追いつめ傷つけてきたかを思った。愛情を知った。思いの深さを知った。そしてこの人に残された、もう取り返しのつかない傷を知った。

「マスター」

 呼びかける。

「アナキン」

 本当に愛おしそうに、応える。

 それなのに、もうこの人はどうすることもできないのだ。

 アナキンは、罪というものがこの世にあるのなら、このような形をしているのだと知った。

 これは罪の形。

 決して贖うことのできない、取り返しのつかない、深い罪の形だ。

「マスター」

 もう一度呼びかける。

 答えは聞こえなかった。




<<END>>



オビ=ワンが狂気へと至るプロセスを考えています。いや、私の中のオビ=ワンが狂気していくプロセスを、人にも分かってもらえるようにするにはどうしたらいいか考えています。私の中のオビ=ワンは、少なくともオビ=ワンの1人は、確実に狂っています。けれどありきたりのように白痴になったりはしないのがオビ=ワン。微笑んで人形のようにからっぽになって全てを忘れてしまうような狂い方はしない。でも、クワイ=ガンを失い、パダワンさえ失うことになるオビ=ワンが正気でいられるとしたら、よほどたくさんのことを過去に変換して生きているのでしょう。普通はそうやって生きていく。おそらく映画のオビ=ワンもそうやって生きていった。でも私の中のオビ=ワンの1人は、あんまりまじめに人を愛しすぎて、現在を過去に変換することなく背負い込んでしまう。そして潰されてしまう。けれど責任感と精神的な強さのあるオビ=ワンは崩壊はしない。しかし正気とは言い難い。そんな状態をいったいどうやったら説明できる?
オビ=ワンの大切なものがひとつずつ失われていくその過程を丁寧に書きつづっていったら、あるいは伝わるかも知れない。けれどそんなもの誰が読む? 誰が読まずとも書きたい、と思ったときに書くかも知れないけれど、今日はともかくこれだけを記して。
狂気するオビ=ワンはもちろんパラレル。だから上記の#3は、EP2より1〜2年前の頃という設定で。アナキンは寂しさと飢えと情欲と若さ故にオビ=ワンを傷つけ、オビ=ワンはその結果正気を失ってしまう。ああもうどうでもいいや。アナキンがどんなに後悔したところでオビ=ワンは戻ってこないんだから。こんな風にならないように、アナキンには頑張ってもらわないといけないのだけれど。