ほとんど毎日のように来ていた常連客が一挙にふたりも来なくなると、さすがに店内の雰囲気も変わる。

「お客さんがすげえ減った気がする」
「そうでもないぞ。気分的な問題だ」

放課後に出勤して手を洗ってコックコートに袖を通し、高校生から料理人の顔になる彼を軽くあしらってはみたが、実際、この年若なコックが得意料理を振舞う数は一日に二皿は減っていた。たかが二皿、されど二皿。さすがにここを開店した当時から、とまではいかないが、数年来の常連客に向けた二皿の喪失は、長年変わらないこの環境に慣れきっていたバリスタとコックを、物思いにふけらせるには充分だった。

働き方こそフリーのようだけれど、一応企業に所属しているプログラマーのイルーゾォは、親会社の研修でシリコンバレーに行ける機会ができたとかで、最新技術に触れられると言って嬉々として旅立っていった。旅行なんて面倒くさい、仕事で拘束されるのも嫌、と言っていたくせに、マニアックな動機が加われば途端に調子づくらしい。行くなら向こうでプロジェクトひとつ終わらせてくることになるから、ワンシーズンくらい缶詰めになる。最後に来店して言葉を交わしたときのその宣言どおり、カフェ・アンチーカの特等席―――開店から閉店まで座っていても疲れない、中古品だけれど一番質の良い一人掛けソファは、三ヶ月近く主を失うことになった。ときおり別の客がその席を選んで座っても、やはり毎日見ていた店主にとっては、あれはイルーゾォの特等席のままなのだった。

もうひとりの常連客―――プロシュートは、正確には来なくなったのではなく、極端に来店の頻度が落ちた。しかも、たまにやって来たと思ったらもれなく機嫌が悪い。苛立ちを隠さないまま、Today's specialのコーヒーを一杯、ぶっきらぼうに頼んで、あまり時間もかけず飲み干して帰る。連れてきた弟分にペペロンチーノを奢るようなことも、なくなった。

いままでも特に笑顔を交わすような用事はなかったけれど、それにしても一ヶ月はプロシュートの笑った顔を見ていない。弟分も連れてきていない。カフェ・アンチーカのバリスタ、リゾットはそれを心配に思っていたし、リゾットをいつも近くで見ながらフライパンを振るっているギアッチョは、心配そうなリゾットをさらに心配していた。

何人かいる特徴的な常連客のうちふたりを欠かしたまま、カフェ・アンチーカは七年目のanniversarioを迎えようとしていた。





約三ヶ月間、リゾットが買い出しで地上にあがるたびに、風景は変わっていった。両隣と真後ろの古い建物がまとめて取り壊されていたのが佳境に入り、囲いの内側に新たな無機物が生まれはじめた。このあたりは古い建物も多いが歴史地区からは外れているから、高層建造物が近頃少しずつ増えきているのだ。地下の店舗には日当たりなんて関係ないが、きっと一階の商店や二階の住人は、あまり歓迎してはいないのだろう。
イルーゾォがバカンスがてらの出張を楽しんでいる間に、プロシュートの機嫌が低空飛行を続けている間に、カフェ・アンチーカを取り巻く風景も変わってゆく。リゾットがアンティークのコーヒーカップを丹念に拭きながら、ギアッチョが琺瑯瓶の中の特製ガーリックオイルに唐辛子を足しながら、移ろう風景のことは幾度も話題に上る。

それでもこのカフェは移ろいゆかずに七年目を迎えられたことを、お互いわざわざ口には出さずとも感謝していた。





店内の照明がカフェからバーのものになろうとする時間帯、ふと客足が途切れることがある。厨房では火を使う下ごしらえも終わり、冷菜の仕込みをしている静かな気配しか感じられない。そんなときはなんとなく、豆をがりがりと挽くのも躊躇われて、リゾットはつかのまの手持ち無沙汰を、カウンターの高い椅子に腰掛けて過ごす。よく知ったカウンターの内側ではなく、椅子をくるりと逆に回し、入り口の扉のほうを眺められるようにして。
店内には、音符の少ないピアノ曲だけが響く。その曲は楽譜にたっぷりと空間が設けられているせいで、小さな鈴が扉にぶつかってちりりと揺れる音も、いつもよりずっと明瞭に聞こえた。客の気を散らさず、リゾットしか気づかなくて済む程度に音を抑えたその鈴が、こんなに響くことは珍しかった。

微かな鈴の音とともに入ってきたのは、今日も弟分を連れず単独行動の、眉間に皺を寄せたプロシュートだった。リゾットは椅子から立ち上がり、いらっしゃい、と常連向けの堅苦しくないトーンで声を掛ける。
プロシュートは常連ではあっても、特等席というものはない。飽き性だから、と言っていた。今日のプロシュートはいちばん奥の席で壁に寄りかかり、Today's specialを指差すより前に、珍しくリゾットに話しかけてきた。

「なぁ―――やりたくねぇシゴトやんなきゃいけなくてイライラしっぱなしの時、おまえならどうする」

およそそんなことを言いそうになかった常連客の弱音に、リゾットは思わず笑いそうになった。
っつってもな、おまえとじゃぜんっぜん仕事違うけどな、と補足して、回答は期待せずにプロシュートは手元の携帯電話を気にし始めたので、リゾットはカウンターの内側に引っ込んで、つい小一時間前まではまだ白かった、炒りたてのコーヒー豆をミルにかけた。
自分の出番、つまりフードメニューの御用命はあるかどうかを探りに、ギアッチョが一瞬だけ厨房から顔を出したのを、ミルを鳴らしながらリゾットは口元の動きだけで制した。

使い込んではいるけれどきちんと清潔に保ってあるフィルターで、こぽこぽとコーヒーを淹れる。カップはいつも、一目で分かるようなブランド物の上等なスーツを身に付けているプロシュートに合わせて、王室御用達のメーカーのものを選ぶ。とはいっても廉価なラインの中古品ばかりで、行列もできないごくふつうのカフェが揃えられる範囲のものだ。金蝕の縁模様が、アンティーク品らしくわずかに薄く剥がれてきているカップに、揃いのソーサーを合わせて供する。


「そういう人間に対するオレの役目は、これだ」

運んできたコーヒーカップを、リゾットはテーブルには置かずに、プロシュートの鼻先に持っていってそこで少し止めた。
リゾットが出したことのない種類の豆。いつもと香りが違うことに、プロシュートはすぐ気づいた。

コーヒー豆の香りを表現する言葉はたくさんある。甘い。苦い。柔らかい。厚みのある。こくのある。さらりとしている。酸味のある。スパイスのような。ナッツのような。
プロシュートが思いつく範囲でその香りを表現するなら、―――澄み切った爽やかな後味の予感がするのに、柔らかい甘さも共存している。それは口をつけずとも身体に染み渡るような香りだった。
香りひとつで人の心を解すのだから、このバリスタは侮れない。

「いつもと違うな。気に入った」
「それはよかった」

プロシュートはよく弟分にワインの薀蓄をたれているから、微妙な風味の判別は得意だろうと、リゾットはふんだのだった。
満足げにプロシュートは、時間をかけてコーヒーを飲み干し、二杯目もおなじものを頼んだ。眉間の皺は消えていた。
せっかくだからこんな時間だけでも悠々とくつろいでもらおうと、バータイムの準備をすっかり終えたギアッチョが、リゾットに目配せをしてから、ドアの札をこっそり"APERTO"から"CHIUSO"に替えた。

「はー………しかし美味いコーヒーでも効能は30分ってとこか。なんか他にねぇかな?気を紛らわす方法」
自分のために店が貸切られているのを知ってか知らずか、プロシュートはリゾットを手招きして席に呼び寄せた。
「…趣味に没頭して忘れるとか、か」
「趣味ねぇ…。おまえは?」
「―――言うほどのものはないな。大体がコーヒーや料理絡みだし、あとはああいう、」
ひとつひとつ異なる、アンティークの椅子の中の、さきほどまでリゾットが座っていたせいで逆向きになっていたハイチェアを指差す。
「インテリアとか、」
「ふん、」
「このカップとか。」
プロシュートがすっかり飲み干したコーヒーに視線を落とす。

「この店を維持できればそれで充分ありがたい。それが趣味みたいなもんだ」
「あっそ」
気のないように思える返事ではあったが、プロシュートには思うところがあったらしい。
客に趣味を勧めておいて当人には仕事以外の趣味がない、そんなリゾットに呆れて可笑しくなって、久々にプロシュートが笑顔を見せた。
代金を置いて地上に戻ってゆく、その足取りにもう苛立ちは感じられなかった。

ドアの札はまた"APERTO"に替わり、照明がほんのすこし落ちる。今日はバータイムに、新しいメニューがひとつ増えていた。七年目をささやかに祝して、ギアッチョはバータイムのメニューに、リゾットはカフェタイムのメニューに、それぞれ新しいとっておきをひとつずつ増やすことに決めていたのだ。





イルーゾォがほとんどワンシーズン缶詰めのような海外生活から帰ってくると、カフェ・アンチーカが地下に入居している古いビルディングを、コの字に取り囲むように、新しいビルディングの建設準備が着々と進んでいた。わざとらしいくらい綺麗にカフェをよけて仮囲いが設置されている。三ヶ月ぶりに顔を合わせるバリスタとの最初の話題はどう考えてもこれしかない、とイルーゾォは思った。開店時間まではあと五分。だけどあのバリスタとコックならもう準備はできているだろう。

「お帰り」
ふいに背後から声を掛けられて振り向くと、いつもの格好からエプロンだけを除いた姿のバリスタが、買い出しでもしてきたのであろう紙袋を手に立っていた。あぁ、とイルーゾォは驚き混じりに返事をした。そして、気になっていたことを尋ねてみる。

「すごいな。あんた、そんなにゴネたのか?」
「…なんのことだ?」
「あれ、思いっきりマフィア絡みの建築会社だろ。よくここだけ残してもらえたな」
仮囲いに描かれている、鮮やかな色のロゴマークをイルーゾォが指差す。
「そうなのか」
先導するように紙袋を抱えて地下への階段を降りるリゾット、イルーゾォは追った。
「あんた何も知らないんだな。あのプロシュートってのもここに噛んでる奴だろ」
「え、」
「ここらへん取り壊しだとか立退きだとか、言われなかったのか」
「―――何も」

それどころか先日は、この店を守るのが趣味だ、なんて語ってしまった。

「オレ、帰国したら、あんたからカフェ移転のお知らせでも来るかなと思ってたくらいだ」
このブロックの再開発事業は、わりあいに有名な話だったようだ。パソコンに向かう仕事の奴はさすがだな、と呟いてリゾットがカウンターに荷物を下ろすと、特等席に深々と腰掛けたイルーゾォは、地下でコーヒー馬鹿やってるあんたが世間知らずなだけだよ、と苦笑した。

リゾットとギアッチョの与り知らないうちに、プロシュートはここを守ってくれていたのだろう。所属する組織の中で立場が悪くなっても、それによって苛立つ出来事があっても。

久しぶりに特等席の座り心地を楽しんでいたイルーゾォは、メニューが新しくなっているのに気づいた。
「today's specialがふたつある。いつのまにできたんだ」
「それは特にspecialなやつだ。この店も七年目になったから、記念に」
「へぇ。だから少し高いのか」
「貴重な豆を自家焙煎してるんだ」
「じゃあそれ頂戴」
三ヶ月いないと色々変わるな、と呟いて、イルーゾォはいつものようにテーブルにノートパソコンを広げた。





それから二時間ほど経ち、イルーゾォが以前とおなじように、一日中居座る常連として店の風景に溶けかけたころ、プロシュートが弟分を伴って現れた。

「ペペロンチーノと、新しく入ったコーヒーお願いします!」
扉を開けるが早いか、弟分が厨房に向かって声を張り上げた。
「馬鹿、うるせぇだろ」
落ち着いたピアノのBGMを掻き消す大声をたしなめるように、プロシュートはペッシの頭を叩いた。その音も充分に大きくて、店内からはくすくすと笑いが漏れる。

「兄貴はすげー忙しかったんすよ!家帰れてなかったんすよ!事務所で寝言で、アンチーカのペペロンチーノ、って言ってましたぜ!あと新しいコーヒーもまた飲みたいって」
「おめーは黙ってろ」
奥の席へと歩みを進めながら、リゾットとギアッチョに聞こえるように、兄貴分が抱くこのカフェへの愛着を、ペッシが代わりに惜しみなく伝えた。
いつもより大股を開いてソファ席に腰掛けた、ばつの悪そうなプロシュートに、リゾットはカウンターの中から、注文はいまの通りでいいか、と尋ねる。プロシュートは照れ隠しのように舌打ちして頷き、それからソファぎしりと音を立てるほど仰け反って凭れかかった。

ほどなく、新作の―――常連客の顔を思い浮かべながら豆を選び挽き方を工夫した、カフェ・アンチーカ七年目のspecialな一杯が、プロシュートとペッシのテーブルに運ばれてきた。
「なんだコレ…すげー癒される匂いっスね!ワインは分かんねえけどコレの美味さはわかりますッ」
日頃のプロシュートのワイン通教育を無下にするようなことをペッシが平気で口走るので、事情のわかっている者たちからはまた笑い声が上がった。本当によく目立つ客だ。

コーヒーの香りを楽しむ時間をひとしきりとったタイミングで、ペペロンチーノも到着する。トレイに一気に載せてきてもいいのだが、まずはコーヒー優先にして一呼吸置いてからスイーツやフードを供するのは、リゾットの小さなこだわりだ。
「これが食べたかったんすよねー、兄貴は」
「あぁ」
空腹が勝ったのか、プロシュートはもう照れ隠しの反論も憎まれ口も叩かず、皿にフォークを向ける。

常連客が再びいつもどおりの風景を形づくる店内は、傍から見ればなんでもないものだけれど、リゾットとギアッチョにとってはまるで七年目のプレゼントのようだった。調理の手を止めたギアッチョが厨房からカウンターのほうに出てきて、リゾットの隣に立ち、噛み締めるように、いつものメンバーがいる店内を見渡す。

頬張ったペペロンチーノを幸せそうに飲み込んで、ペッシがまたBGMを掻き消す大声を上げる。
「このカフェ、一生!死ぬまで通い続けたいっス!マジで!」
その言葉を受けたプロシュートは、弟分ではなく、カウンターで顔を見合わせて微笑んでいたバリスタとコックのほうを見て、
「そうだな」
と笑って頷いた。







END








おおおおアンチーカーッ!大好きなアンチーカの新作が読める喜びッッ!まさかのイルくんお店脱出(そしてまさかの旅行)に妙に驚いて、それが面白かったですwwwアンチーカの座敷童とも呼ばれた(呼ばれてない)イルくんが海外に行くとか想像もしたことがなかった……。そして漏れなくかっこいい兄貴。かっこいいバールマスター。かわいいコックさん(なんでオレだけかっこいいじゃねーんだよ納得いかねぇクソッ!)。アンチーカの彼らは生きてるんだなぁ……としみじみ嬉しくなりました。
茜さん、ありがとうございました!
By明日狩り  2014/04/25